ヤンキーたちの憧れ・横浜銀蝿が37年ぶりに復活、伝説の数々…
伝説的ツッパリロックバンドが、“横浜銀蝿40th”として2月19日にオリジナル&ベストアルバム『ぶっちぎりアゲイン』を発売。同日に、同アルバム収録の「Again」のMVを公開し、話題を呼んだ。
TCR横浜銀蝿RSは、バンドの顔でありメインボーカルを務める翔、ファン人気も高かったギターのJohnny、作詞作曲、編曲家としての一面を持つベースのTAKU、最年長のリーダーであり、翔の実兄でもあるドラムスの嵐の4人構成。1979年9月の結成以後、パワフルでエネルギッシュなロックンロールでありながら、どこかポップな楽曲で大人気を獲得した。
1980年に、シングル『横須賀Baby』とアルバム『ぶっちぎり』の同時発売でデビューすると、その持ち前のアウトローで孤高な雰囲気が受けたのか、爆発的な人気を獲得。翌年1月発売のセカンド・シングル『ツッパリHigh School Rock’n Roll(登校編)』と、アルバム・カセット『ぶっちぎりII』は、翌月のオリコンアルバムレコード売り上げ部門で1位となった。
その後、数多くの全国ツアーをこなしつつ、『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)や『ザ・ベストテン』(TBS系)など、多くの音楽番組に次々と出演。そして、結成から約2年という驚異的な速さで、初の武道館ライブを達成した。
音楽業界で猛進を続けていたTCR横浜銀蝿RSだが、人気が出てくるのに合わせて、音楽ジャンル以外のメディア出演も増えていった。
そんなTCR横浜銀蝿RSだが、なんと人気絶頂期だった1983年に突如解散を発表し、世間を驚かせた。そして同年12月31日には、新宿コマ劇場でラストコンサートを行い、公式に解散となった。
“THE CRAZY RIDER 横浜銀蝿 ROLLING SPECIAL(以下:TCR横浜銀蝿RS)”は、真っ黒なライダージャケットにサングラス、バキバキのリーゼントに強面というインパクト抜群のビジュアルと、類稀なる音楽センスで知られるロックバンド。1980年代前半に起こった“暴走族”、“ツッパリ”ブームのなかで、日本の音楽シーンを席巻した。
数々の伝説やスキャンダルで知られるTCR横浜銀蝿RS。今回は、37年ぶりに待望の完全復活を遂げた、このレジェンドロックバンドのヒストリーを振り返ってみよう。
結成からわずか2年で達成した武道館ライブ…業界を震撼させた“銀蠅ブーム”
モノマネにチャレンジ!? 意外な芸能活動&弟分“銀蠅一家”の存在
『徹子の部屋』(テレビ朝日系)といった人気トーク番組へも出演。1981年には、当時の銀蠅人気をいち早くキャッチした東映によって、ドキュメンタリー映画『ぶっちぎり』が制作された。後述の解散後は、翔が『ものまね王座決定戦』(フジテレビ系)の審査員や司会として幾度も出演、その音楽センスを披露していた。 また、TCR横浜銀蝿RSをシーンの中心として、後に俳優となる杉本哲太が所属していた“紅麗威甦”や“アキ&イサオ”、“BLACK SATAN”、“WALTHER”といったバンド、嶋大輔、岩井小百合といったソロシンガーも多数誕生。彼ら弟分アーティストは“銀蠅一家”と呼ばれ、本家に勝るとも劣らない大ヒットを生み出した。ヨロシク! https://t.co/t4Nt8pZTf1
— 横浜銀蝿 翔 (@ginbae_show) November 15, 2019
人気絶頂期で突然の“解散”、メンバーは別々の道へ…
その後、翔はソロで音楽活動を続ける一方で、先ほども触れたテレビでのタレント活動にも精を出すようになる。活動中にもソロ活動を行っていたJohnnyは、解散しても音楽活動を続け、その後大手音楽会社キングレコードに就職。中山美穂や的場浩司といった人気シンガーを世に送り出すディレクターとして、その才能を開花させた。 TAKUは、作詞・作曲・編曲家としての才能を活かし、中森明菜、三原順子、おニャン子クラブ等の楽曲を手掛けた。なかでも三原は、TAKUの楽曲でオリコンベスト10入りを果たすなど、その人気獲得に大きな役割を担った。嵐は、嵐ヨシユキ名義で多くの楽曲を手がけるプロデューサーとして活躍する傍らで、惜しくも落選はしたが、2001年に参院議員選挙に立候補したこともあった。
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