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FC琉球・小野伸二「子どもの頃の夢はトラック野郎でした」

 世界中で猛威をふるっているコロナウイルスのせいで、すべてのイベントが自粛の中、Jリーグもいまだ開幕のめどが立ってない。年始からトレーニングに励んでいたFC琉球。昨年、8月に移籍したレジェンド小野伸二が今だから語ることとは何か……。 短期集中連載 FC琉球・小野伸二40歳「好きなことで生きてきた~信念のつくり方~」

子どもの頃の夢はトラック野郎でした

――この世の中には、およそ2万種類の仕事があると言われている。夢と仕事は「夢=仕事」としても語られる。しかし、自分の適性で仕事を選んだ人もいれば、なんとなくその仕事に就いた人、やむにやまれぬ理由でその仕事をやっている人もいる。仕事と夢、そして生き方を小野伸二はどう考えているのだろうか。  僕は静岡県沼津市という街で生まれ育ちました。10人兄弟で決して裕福じゃない家庭環境でした。兄貴たちはトラックの運転手で、東京に行くときなんかにときどき乗せてもらってました。大型トラックって、後ろに寝るスペースがあって、そこで寝るのがすごく楽しかったのを覚えています。当時、『トラック野郎』っていう映画もテレビで再放送されてて、トラックの運転手はカッコイイなぁ〜って思ったりして……。だから、僕の幼い頃の夢はトラック運転手だったんです。  そのせいか、今も車を運転するのが好きなんです。人に運転してもらうのが嫌いなくらい(笑)。幼い頃にトラック運転手に憧れていたこともあって、今でも大きな車を運転するときなどは特に楽しさを感じています。練習場にも自分で運転していきますし、海外にいた頃も運転を楽しんでいましたね。 小野伸二

夢の実現と現実が一つの道となった日

――Jリーグが発足して開幕したのは’93年。トラック野郎を夢見ていた少年に新たな夢が芽生えた。そう、プロサッカー選手への道である。  中学校2年の時に、Jリーグが発足したんです。ちょうど年齢的にも反抗期の時で、母親に「クソババア!」とか言ったりしてましたが、あるとき、母親が大きな手術をしたんです。その手術の傷を見たときに僕の中でいろんなことが変わったんです。母親を、そして家族を絶対に幸せにしなくちゃいけないって……。  Jリーグができて、プロサッカー選手という仕事が日本にも登場して、サッカーでお金が貰えるなんて、これ以上のことはないって思ったんです。そこからはもう、サッカー一筋って感じでしたね。あの時から、何の迷いもなくプロサッカー選手になって稼いで絶対に家族を幸せにするんだという思いを強くしたんです。
小野伸二

若い選手が多いFC琉球では、積極的にコミュニケーションをとっているという

――浦和レッズへの入団を皮切りに、これまでの活躍は誰もが知るところである。大舞台を経験し、厳しいプロの世界に身を置いて21年目を迎える小野伸二にとって、仕事とはどんな存在なのだろうか。  多くの人たちが仕事は仕事と割り切って生活していると思うんですが、自分の好きなことを仕事にできてお金を貰えるなんてありがたいことだと思ってます。前回も書いたように、僕は職業欄に「プロサッカー選手」と書くことになります。でも、僕にとってサッカーとは、やっぱり仕事という感覚ではなく「サッカー」という位置づけなんです。  好きなことでお金を貰える、生活ができるということは、本当に恵まれていると思います。この恵まれた環境にいられる喜びや楽しさは、常に感じるようにしていますね。それは忘れちゃいけないなって思います。
’79年、静岡県沼津市出身。’93年にU-16日本代表に選出され、その後も各年代の代表として活躍。清水商業卒業後は浦和レッズに入団。その後、オランダ、ドイツ、オーストラリアなどのチームを渡り歩き、昨年8月に北海道コンサドーレ札幌からFC琉球へ移籍した
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