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「嫌な思い出も笑えるように描けば救われる」訪問販売の経験を漫画にした理由

漫画家たかたけしが実体験をベースに描いたギャグ漫画『契れないひと』は現在、第2巻まで発売中

誰にも読まれずに描き続けていた15年

――営業の8か月は、何歳のときの話ですか。 たか:23歳くらいの頃ですね。だから、いまから20年近く前の話です。そこから一度実家に帰って、一年間コンビニでアルバイトをして100万貯めて、漫画家になるために上京してきました。 ――漫画家を志したのはいつ頃だったんですか。 たか:25歳くらいの頃です。もともとはお笑いが好きだったから、漠然と芸人になりたいなと思っていて。ただ声が通らないから無理だなとか思っているうちに、だんだんと夢がズレていって、ギャグ漫画を描きたいな、と。だから漫画もすごくたくさん読んできたわけでもなくて、少年ジャンプみたいな王道の漫画が大好きなタイプでした。『ドラゴンボール』が大好き。 ――『契れないひと』って『ドラゴンボール』が大好きな人が描いていたんですね。ちょっと意外でした。上京したのは、漫画家のアシスタントについたりするためですか。 たか:いや、アシスタントをやるという選択肢は特にありませんでした。技術もなかったので、できないだろうな、と。東京に来たかったのは、とにかく地元が何もないところだったからですね。漫画を理由に出てきたところはあります。 ――そこから今回の連載を掴むまで、どのような道筋を辿ってきたのですか。 たか:上京してから15年間、ただひたすら漫画を描いては投稿し続けていました。「けつのあなカラーボーイ」というグループで同人誌も定期的に出していましたね。もちろんそれじゃ食えないので、週5でコンビニバイトもしていました。 ――作中ではコンビニバイトのエピソードも出てきますね。営業を辞めた篠原めぐの転職先。同僚の田中とのやりとりがまた面白くて。 たか:田中もバイト時代に全く同じような人がいて、そのまま描いています。 ――15年間というのはかなり長い期間だと思うのですが、その間に賞をもらったり、雑誌掲載につながりそうだったり、そういった手応えのようなものはあったのですか。 たか:いや、全くですね。この連載が決まる1年前に初めて別の雑誌で賞をもらったのですが、結局それも連載につながらなくて。同人活動も、僕は誰からも感想をもらえないんですよね。  たとえば、「なし水」を出したときも、こだまさんは地方からファンが来て泣きながら「会えてよかったです」とか言われたりするんです。でも、その人たちは僕には一瞥もくれずに去っていったりする。まあ仕方ないなとは思うけど、やっぱり傷ついてしまう。投稿にも全く引っかからないし、何をやっても誰も読まないな、という12年間でした。 ――そこで心折れずにやり続けた結果が今なんですね。 たか:途中は卑屈になったり、人間不信になったり、いい歳してグレてました。40歳を越えたあたりから、体力的にキツくなることもあって。特にヤンマガに声をかけられてからは、週5でコンビニバイトをしながら毎週ネームをもっていく日々で、ありがたいけどかなり大変でした。人って疲れると無意識に涙が流れるんですよね。 ――心身ともに限界がきていたんですね。今は当時と比べたらまるで生活が変わりましたか。 たか:うーん、そう言われると、正直あまり変わっていないんですよね。アシスタントもいないからひとりで描き続けているし、バイトしながら同人誌を描いていたときの延長線上にいるような気分。でも、描くと必ず誰かが読んでくれているんです。それが嬉しいし、まだちょっと信じられない。
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どうしようもない奴が輝く瞬間ってある
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