更新日:2020年12月16日 18:15
スポーツ

悲運のプロ野球新人王・森田幸一を襲ったゴシップ騒動。ケガ、そして引退

難航した移籍交渉

 とはいえ、森田は貴重な戦力である。中日としてはパリーグの球団を中心にトレードを打診したが、見返りとして看板選手を要求したため、結局トレードはご破算になってしまったのだ。 「トレードを志願した時に、球団には言いたいことを言ったのでスッキリはしましたね」  トレードが中止になり、中日に残留することになったが遺恨は残らなかったと森田は語る。だがフロント側からすれば、ここまで揉めた選手に対して印象はよくはない。後に遺恨が残ったとしか思えない仕打ちが森田を待っていた。

肘のケガと突然の解雇通告

 その3年後、森田は中日から解雇されてしまったのである。功労者でありながら、たったの5年間で自由契約を通告するというのはあまりにも不可解だ。トレード志願の件で球団の心証が悪くなったのではないかと尋ねた。 「確かにそれはあるかもしれませんね……」 森田は静かに答えた。  4年目の’94年。森田の身体に大きな異変が起きた。 「入団4年目に肘に違和感があって病院に診てもらうと、通称“ネズミ”遊離軟骨でした。手術はしてないです。様子を見ながらプレーしてましたね。遊離軟骨って、痛いときもあれば痛くないときもあるので、やっかいなんですよ。勤続疲労というものあると思います。どの野球選手もそうですが、疲労が蓄積されて怪我に繋がる。酷使とは違うんです。監督としてみれば、コイツを使って試合に勝とうとしていれば、それに答えを出すのが選手。監督が“行け”と言われればいつでも行って結果を残す。それがプロの世界なんです」  酷使されたのではない……森田はそうハッキリと答えた。当時の中日は近藤真一、上原晃、与田剛といった1年目のルーキーを星野監督が過度の登板をさせ、壊してしまった前例があるだけに、こちら側の勝手な思いがよぎってしまった。 「昔はそんなに言うほど酷使されていないと思うんです。今だと年間70試合投げるピッチャーと比べたら、僕らは50試合そこそこですから」  数字だけを見れば、今の選手のほうが圧倒的に登板数は多いというが、投球回数を見ると50試合しか投げていない森田のほうが多いのである。現代野球は完全分業制が確立し、セットアッパー、クローザーともに1イニングに限定というのが今の主流。だが、今から30年前のロングリリーフといえば、平気で4イニング、5イニングを投げていたのだ。
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球界復帰を目指して浪人生活を決意
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1968年生まれ。岐阜県出身。琉球大学卒。出版社勤務を経て2009年8月より沖縄在住。最新刊は『92歳、広岡達朗の正体』。著書に『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社)、『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』(KADOKAWA)、『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『偏差値70の甲子園 ―僕たちは文武両道で東大を目指す―』、映画化にもなった『沖縄を変えた男 栽弘義 ―高校野球に捧げた生涯』、『偏差値70からの甲子園 ―僕たちは野球も学業も頂点を目指す―』、(ともに集英社文庫)、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『史上最速の甲子園 創志学園野球部の奇跡』『沖縄のおさんぽ』(ともにKADOKAWA)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『永遠の一球 ―甲子園優勝投手のその後―』(河出書房新社)などがある。

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