更新日:2020年12月16日 18:15
スポーツ

悲運のプロ野球新人王・森田幸一を襲ったゴシップ騒動。ケガ、そして引退

球界復帰を目指して浪人生活を決意

 ’95年、森田にとって5年目のシーズンが始まった。だが、遊離軟骨のせいで肘に痛みが走り、思い切り腕が振れない。誤摩化そうと思っても腕が振れなからごまかせない。肘に負担をかけないようにかばうように投げていると、今度は肩を痛めてしまった。 「5年目は病院に通いつつ状態を見ながらリハビリしていました。このままいっても投げられない期間が続いてしまうだけなので、手術をするかどうかの判断を待っていました。そしてやはり手術せずに様子を見よう、と診断が下ったときに球団から伝えられたのは戦力外通告でした」  解雇されても森田の気持ちは折れなかった。肘さえ治ればまだまだ投げられるという思いもあり、名古屋に残ってそのまま治療を続け、現役復帰のためにもう1年治療に専念した。だが球団に属せずいわば浪人状態でリハビリをしながら現役復帰をすることは並大抵なことではない。練習する場所も限られ、キャッチボールをする相手を探すのも一苦労だったという。 「普通にシーズン終わって2か月近くオフで空くじゃないですか。いちから身体作りしていかないときちんとしたボールを放ることができないんです。ましてや1年近く空いてしまうとなると、そう簡単には取り戻せないです」

気力があったがユニフォームを脱ぐことを決断

 気力は十分あった。ただ気力だけではどうしても補えない部分があったのも事実だ。身体が十分ならまだしも、肘痛が一向によくならない。環境も整っていない状況で現役復帰を目指してトレーニングとリハビリを続けることの難しさは、想像に難くないだろう。そして、森田の心は折れてしまったのだ。 「年齢的にも37、8なら肉体的にもついていけないから諦めがつきますけど、まだ30手前でしたし、悔いはありました。僕らの時代は複数年契約などなかったし、手術に対しての保障もなかったですから。手術をしたら1年棒に振るんです。その期間、球団は面倒を見なきゃならない。普通は面倒見てくれないでしょ」  森田は紳士風に柔らかい口調で話す。あれだけの功労者なら球団側があと1年見てくれてもよさそうだが、森田自身もトレード志願などで球団から心証が悪いことを十分に自覚していた。若いときからプロは実力の世界と息巻いていたはずなのに、怪我をしてリハビリしている最中、功労者だからといって球団にあと1年だけチャンスをくれと言うのは虫がよすぎる。’95年はまるまる1年間リハビリ、’94年にしても一軍ではわずか4試合しか投げていない。実質2年間投げられていない状態。クビになるのも仕方がない……森田はそう割り切った。  森田は現在、関西にある会社に勤めている。 「名刺を渡しても初対面の方には全然気づいてもらえないないですよ。話を振ってもらってから、ネタとして昔の話をしますけど」  森田は、プロ野球界と完全決別し、いち社会人として第二の人生を懸命に生きている。 「肘は何ともないですが、肩はたまに痛みが出ますね。今でも130キロくらいは出ますよ。29から49まで何もやってなかったですから休養十分です。数年前から子供たちに教えるってことで投げ始めました。フォームとか、やっぱり身体が覚えているんですよね。頑張って140キロ出そうと思っています」  現在55歳、肉体的には衰えているかもしれないが心はいまだ現役のまま、そう感じた。
1968年生まれ。岐阜県出身。琉球大学卒。出版社勤務を経て2009年8月より沖縄在住。最新刊は『92歳、広岡達朗の正体』。著書に『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社)、『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』(KADOKAWA)、『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『偏差値70の甲子園 ―僕たちは文武両道で東大を目指す―』、映画化にもなった『沖縄を変えた男 栽弘義 ―高校野球に捧げた生涯』、『偏差値70からの甲子園 ―僕たちは野球も学業も頂点を目指す―』、(ともに集英社文庫)、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『史上最速の甲子園 創志学園野球部の奇跡』『沖縄のおさんぽ』(ともにKADOKAWA)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『永遠の一球 ―甲子園優勝投手のその後―』(河出書房新社)などがある。

92歳、広岡達朗の正体92歳、広岡達朗の正体

嫌われた“球界の最長老”が遺したかったものとは――。


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昭和のプロ野球界を彩った男たちの“信念”と“生き様”を追った渾身の1冊

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