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「ワイドショーよ出ていけ」リポーター東海林のり子の尊敬すべき現場主義

3月26日、22年間お茶の間の朝を彩ってきた『とくダネ!』(フジテレビ系)が終了し、昭和・平成を駆け抜けた「ワイドショー」はひとつの転換点を迎えた。芸能リポーターとして、ときに事件、事故の現場に向かい、人々の喜怒哀楽を伝え、時代の節目に立ち会ってきた者たちも同時に新たなステージに向かおうとしている。芸能リポーターという仕事とは何だったのか? 令和のいま、当事者たちの証言をもとに紐解いていく――。

<大村正樹・第3回>

大村正樹3 1995(平成7)年は年明け早々、阪神淡路大震災で日本中が混乱していた。不眠不休で働いた震災現場のリポートを経て、大村正樹の胸の内にも、ようやく覚悟と矜持が芽生え始めていた頃、その「事件」は起こった。 3月20日、「地下鉄駅構内毒物使用多数殺人事件」、通称「地下鉄サリン事件」が都内で発生した。世界でも例のない大都市圏における化学兵器による無差別テロは、世間に大きな衝撃を与えた。当然、ワイドショーのリポーターとして、この日から始まる一連の「オウム騒動」の渦中に、大村もまた否応なく巻き込まれることになった。 「95年は1月に阪神淡路大震災があって、3月に地下鉄サリン事件がありました。実はその間の2月に、僕にとってとても大きな出来事があったんです……」  大震災と未曽有の無差別テロ事件に挟まれた95年2月、先輩リポーター・東海林のり子が引退を決意していた。フジテレビ『3時のあなた』でリポーターデビューした東海林は、事件リポーターの草分け的存在で、「現場の東海林です」というフレーズが世間一般に浸透するほど「現場主義」にこだわった、尊敬すべき存在だった。

「ワイドショーよ出ていけ」。大先輩・東海林のり子の突然の引退

「東海林さんがリポーターを辞めるきっかけとなったのが、阪神淡路大震災でした。あの頃、ある新聞が《ワイドショーよ出ていけ》という記事を発表し、そこには東海林さんの写真が掲載されていたんです。東海林さんは、その記事に胸を痛め、とても悲しんでいました。それがきっかけとなって2月上旬にフジテレビを辞めてしまったんです……」  阪神淡路大震災の現場では、東海林と同じチームでリポートを続けていた。震災直後から、大村は2週間ずっと現場に張りついていた。大村と東海林は互いに交代しながら、さまざまなリポートを東京のフジテレビに送っていた。 「東海林さんの現場での仕事ぶりは本当にすごかったんです。当時、すでに還暦を迎えていたけど、精力的なリポートを続けていました。この頃、東海林さんからこんな言葉を言われたことを覚えています……」  このとき東海林は大村に対して、「被災者の方にカメラやマイクを向けることは辛いことだけど、こうやって私たちがきちんと伝えることで、被災者の方々にパンが届くかもしれない。衣類が届くかもしれない。だから、きちんと被災者の方々に寄り添いながら、頑張って伝えていきましょうね」と口にしたという。 「この言葉はとても印象に残っています。僕たちがリポートすることで、いろいろなものが全国から集まってくる。それが僕たちの役割なんだ。その言葉はとても力になりました。でも、その東海林さんがこの震災を最後にリポーターを辞められてしまったんです」  先輩リポーターの突然の引退劇により、当時20代後半を迎えていた大村に、さらなる飛躍の機会が訪れた。そんなさなかに起こったのが、地下鉄サリン事件に端を発するオウム騒動だった――。
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オウム報道で、手にした確固たる自信
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1970年、東京都生まれ。出版社勤務を経てノンフィクションライターに。著書に『詰むや、詰まざるや〜森・西武vs野村・ヤクルトの2年間』(インプレス)、『中野ブロードウェイ物語』(亜紀書房)など多数

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