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「ワイドショーよ出ていけ」リポーター東海林のり子の尊敬すべき現場主義

オウム報道で、手にした確固たる自信

 3月20日――。地下鉄車両内で神経ガスのサリンが散布され、乗客や駅員ら14名が死亡し、約6300人が負傷した。事件から2日後の22日に、警視庁はオウム真理教に対する強制捜査を行い、同教団の関与が次々に明らかになっていく。この間、ワイドショーのオウム報道はヒートアップしていく。 「東海林さんが辞めた後のフジテレビでは、現場に出るのが奥山(英志)さん、緒方(昭一)さん、平野早苗さん、そして僕の4人でした。平野さんは芸能人の囲み取材が多かったので、僕ら3人が主にオウムのリポートを任されました。亀戸にある東京総本部はもちろん、静岡の富士山総本部、山梨の上九一色村、どこにでも駆けつけました」  オウムに強制捜査が入るという情報を得て、前日となる21日に上九一色村入りした。そしてその翌日、強制捜査が行われた。防毒マスクを装備した捜査員の手には、毒物検知用のカナリヤの入った鳥かごが握られていた。 「今でも、このときの映像がニュースで流れることがあります。そこには、“今、上九一色村に捜査の手が及びました!”という僕のリポートが使われています。あの頃、オウムの実態も、サリンの怖さもよくわかっていませんでした。だから、僕らは捜査員よりも前にいてリポートをしていました。捜査員はガスマスクをしてカナリヤを手にしているのに、僕らは無防備なまま、先回りをしていました(苦笑)。それぐらい、まだオウムに対する緊張感は希薄だったんです」  阪神淡路大震災において不眠不休でリポートを続けた大村。このオウム騒動でも、極寒の上九一色村にて八面六臂の活躍を続けた。少しずつ、フジテレビ内において「大村正樹」という名前が存在感を増していく。 「この頃、“大村のリポートは迫力がある”という話を耳にするようになりました。この頃から、仕事量が飛躍的に増えていきました。一本当たりの単価も上がり、当初は1本2万円だったのに、95年の秋には二倍になりました。ようやく、月収40万円になったのがこの頃でした」

本格的インターネット社会の到来を前に

大村正樹3-1 95年1月の阪神淡路大震災。そして、3月の地下鉄サリン事件。これらの大震災、大事件を通じて、少しずつリポーターとしての手応えを手にした。しかし、「両者のリポートの評価には決定的な違いがあった」と大村は述懐する。 「阪神淡路大震災のときには誰にも褒められなかった記憶があります。そのときはまだ出番が少なかったので、基本的にはディレクターのような仕事もしていました。でも、地下鉄サリン事件の頃には現場の最前線でリポートする機会が増えました。当時、『おはよう!ナイスデイ』の総合MCは生島ヒロシさんでした。中継内容が面白ければ、生島さんはグイグイ、現場に絡んでくれました。生島さんとはキャッチボールをする楽しさがありました」  司会の生島だけでなく、番組プロデューサー、ディレクターたちも「大村のリポートは面白い」「大村なら8分間は持つ」と評価が上がっていく。それはつまりは「大村のリポートは視聴率が取れる」ということと同義でもあった。 「大げさに言えば、95年3月22日のオウムの強制捜査以降、僕の評価が大きく変わったと思います。この頃から、《もっとも熱い現場》に駆り出される機会が増えました。そして、“今日のリポートもよかったよ”と褒められるようになりました。プロデューサーからは、“大村は使い減りがしないよね”と言われました。この言葉は嬉しかったですね。やっと、仲間に入れてもらえた。そんな感じがしましたから」  百戦錬磨の先輩リポーターにはない若々しさ、そして取材対象者に対して、勇猛果敢に突撃する迫真のリポート。こうした武器を、大村はついに手にした。30代を前に、ようやくリポーターとして生きていく態勢が整ったのだった。 「今から思えば、この頃が一番、ニュースを伝えやすかった時代だと思います。これ以降、インターネット社会が本格的に到来し、ニュース報道が少しずつ変わっていきましたからね……」  ちょうど同じ頃、「ウインドウズ95」が発売され、爆発的なヒットを記録していた。いよいよパソコンが家庭に普及し始めていた。携帯電話も「一人に一台」の時代が訪れようとしていた。社会が変わろうとしている。社会が変われば、当然、ニュース報道のあり方も変わる。不用意な発言が「炎上」を招く時代が、すぐそこまで来ていた――。 (第4回に続く) 撮影/渡辺秀之
1970年、東京都生まれ。出版社勤務を経てノンフィクションライターに。著書に『詰むや、詰まざるや〜森・西武vs野村・ヤクルトの2年間』(インプレス)、『中野ブロードウェイ物語』(亜紀書房)など多数
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