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「現場の東海林です!」87歳になった東海林のり子、リポーター人生の原点を語る

男だらけの現場で、女性リポーターだからできること

東海林のり子2 事件リポートを任された東海林にとって、乗り越えるべき壁は他にもあった。当時も現在も、「事件モノ」は男性の仕事だという風潮が根強い。テレビ局、新聞社の報道記者はほとんどが男性だった。その中に女性である東海林が入り込んでいくのは容易なことではなかった。 「新聞記者も、テレビ局のリポーターも、ほとんどが男性でした。完全な男社会で、取材内容をみんなで共有するような談合社会だから、女性である私のことはまったく認めようとしませんでした。事件現場に行っても、男性同士が集まって、私を一瞥するだけ。現場に遅れて行くと、あからさまに“あっ、女が来たよ”という態度をとる。だから私、“絶対に負けちゃいけないな”って思ったの」  誰ともつるまずに、独自のリポートを続けているうちに、東海林は男性取材陣たちの「ある特徴」に気がついた。 「男の人たちって、意外と諦めが早いことに気づいたのね。事件を取材していて、“これ以上は聞けないな”っていう見切りをつけるのが早いんです。そして、みんな帰っちゃう。だから私は、帰るふりをして、また現場に戻ってそこからどう粘るかが勝負。こうして少しずつきっかけをつかんでいったんです」  男性取材陣が帰り支度を始めると、東海林もまたフジテレビに戻る準備を始めた。そして、他のリポーター、記者たちが完全にいなくなったことを確認すると、東海林は再び事件現場に戻る。すると、その頃には近所の主婦たちの井戸端会議が始まっていることがしばしばあったという。 「主婦たちの輪の中に入ってマイクを向けると、一気に4人も、5人もコメントが取れるんです。こうして、みんなとは別行動をしてコメントを拾うということは何度もしました。それは、男性社会の中で、私がリポーターとしてやっていくために必要な技術でした」  少しずつ、少しずつ、事件取材の醍醐味を味わいながら、東海林はリポーターとしての階段を上っていったのだった。

おびただしい血痕が……続発する少年犯罪の現場で発見したこと

 1980年代、相次ぐ少年犯罪が社会問題となっていた。東海林の覚悟が試される時代が訪れようとしていた。’80年11月29日――川崎市高津区で「その事件」は起きた。 「父は東大、母は東京女子大、兄は早稲田大卒という完璧な高学歴一家で、二浪中の次男が、両親を金属バットで殺害した事件が起こりました。世に言う、『金属バット両親殺人事件』です。あの日、共同通信からの第一報を見た私とディレクターは、すぐにタクシーに飛び乗って事件現場に向かいました……」  現場には他局の撮影クルーは誰も到着していない。事件現場となった一戸建ての家屋にはまだ警察による規制線が張られていない。東海林は現場宅の周りを散策する。このとき、強く印象に残ったのは、二階の窓から見える水玉模様のカーテンだった。 「……事件がどの部屋で起きたのかは、この時点ではまだわかりませんでした。だから、家の周りを回ってみたり、ガレージに入ってみたりしていたときに、水玉模様のカーテンを見つけました。でも、よく見たら、それは水玉模様ではなく、おびただしい数の血痕だったんです。おそらく、その部屋が事件現場となった両親の寝室だったのでしょう。このとき、私は一つの発見をしたんです」  ――いち早く現場に到着すれば、誰も知らない発見ができる。  東海林がこのときの心境を振り返る。 「ただ遠くから事件を見ているのと、すぐ近くで見ることはまったく違います。到着が遅れれば、それだけ近くに行く機会が失われてしまう。早く着けば、それだけ発見もある。そんなことに気づいたのが、この事件だったんです」  この頃はまだ「教育虐待」という言葉はなく、「受験戦争」の激化を象徴する事件として、今でも「金属バット両親殺害事件」は人々の記憶に焼き付いている。80年代の訪れとともに、これからますます少年犯罪は増えていくことになる。東海林の出番が、本格的に始まろうとしていた――。 (第2回に続く) 取材・文/長谷川晶一(ノンフィクションライター)撮影/渡辺秀之 取材協力/赤沢奈穂子
1970年、東京都生まれ。出版社勤務を経てノンフィクションライターに。著書に『詰むや、詰まざるや〜森・西武vs野村・ヤクルトの2年間』(インプレス)、『中野ブロードウェイ物語』(亜紀書房)など多数
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我がままに生きる。

60年以上に渡りメディアで活躍する、
東海林のり子の半生をまとめた86歳の赤裸々自分史。

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