エンタメ

無神経、不謹慎…リポーター大村正樹が誹りを受けるのはなぜなのか?

3月26日、22年間お茶の間の朝を彩ってきた『とくダネ!』(フジテレビ系)が終了し、昭和・平成を駆け抜けた「ワイドショー」はひとつの転換点を迎えた。芸能リポーターとして、ときに事件、事故の現場に向かい、人々の喜怒哀楽を伝え、時代の節目に立ち会ってきた者たちも同時に新たなステージに向かおうとしている。芸能リポーターという仕事とは何だったのか? 令和のいま、当事者たちの証言をもとに紐解いていく――。

<大村正樹・第4回>

大村正樹4 阪神淡路大震災、そして地下鉄サリン事件に端を発するオウム事件を通じて、リポーターとしての自信と手応えをつかんでいた大村は、その後も順調にキャリアアップを続けていた。しかし、21世紀の訪れとともに、少しずつ時代は変わろうとしていた。  現在、インターネットの検索サイトで「大村正樹」と入力すると、キーワード入力補助として「無神経」という言葉が出てくる。以前は、そこに「炎上」「嫌い」「不謹慎」というワードも並んでいた。一体、彼は何をしたのか? どうしてそこまで否定的な扱いを受けねばならなかったのか? そのきっかけは20年前にさかのぼる。 「2002(平成14)年に日韓ワールドカップがありましたよね。同じ年には日朝平壌宣言もあったこともあって、その前年くらいから何度も何度も韓国に取材に行きました。日韓ワールドカップを契機として、日本と韓国の距離が近づくんじゃないか。そんな思いを持って、リポートを続けていたんです」  02年ワールドカップにおいて、グループHから決勝トーナメントに進んだ日本は6月18日、仙台でトルコに敗れ去った。一方、グループDを一位通過した共同開催国の韓国は決勝トーナメントではイタリア、スペインを撃破。6月25日にソウルで行われる準決勝・ドイツ戦まで勝ち進んでいた。 「僕は韓国でイタリア、スペイン、ドイツ戦をすべて現地取材しました。このとき僕はソウル市内から韓国のユニフォームを着てリポートしたんです……」  当時、すでに『とくダネ!』でも、番組公式ホームページを開設していた。そこにはチャット欄も併設されていたが、そこが荒れに荒れた。大村に対して、「韓国びいきだ」「反日リポーターだ」という罵詈雑言が乱れ飛ぶこととなったのだ。 「何も他意はありませんでした。日本はすでに敗退し、共同開催国の韓国が勝ち進んでいるから現地でリポートをした。その際に韓国のユニフォームを着て、韓国市民とともにその熱狂を伝えたかった。ただ、その意図は伝わりませんでした……」  フジテレビは韓国びいきだ、大村は反日リポーターだ――。あまりにも極端なレッテルが貼られることになった。さらにときは流れて06年には、野球の国際大会であるワールド・ベースボール・クラシック(WBC)が開催された。このとき日本と韓国は激しい戦いを演じ、3月18日の準決勝では、実に三度目の日韓戦が行われることとなった。 「もちろん僕は韓国に行き、約20万人の市民が集まっているソウル市庁前広場からリポートをしました。でも、このときも“試合はアメリカで行われているのに、どうしてアイツは韓国でリポートしているんだ”と非難されました。対戦チームの現地からリポートするのは、別に特別なことでもなくよくあることです。でも、ワールドカップの一件があったから、そのときもすごく叩かれました」

「かわいそう」すぎてはダメな時代に

 本音を言えば、「よくあるリポート」で、何が問題なのかきちんと理解していなかった。しかし、視聴者はそうは受け取らない。ネットの声にもっと敏感になるべきではないのか? そんな思いが芽生え始めていたのがこの頃のことだった。 「コンプライアンス意識がなかったかつてのワイドショーは、今から思えばツッコミどころ満載でした。でも、ワイドショーってわざわざ録画してまで見る人は少ないんです。ワンテイクで、いかにインパクトを残せるかの勝負でした。でも、今では番組内容や感想がすぐにネットにアップされ、番組を見ていない人が“それはけしからん”となることがとても多い。少しずつ時代は変わっていったんです……」  11年4月、大村は北海道に拠点を移し、北海道文化放送にて自らの看板番組『U型テレビ』、その後の『U型ライブ』のメインキャスターを務めることになった。この頃、大村にとって忘れられない出来事があった。 「2013年5月、北海道の道東地方に爆弾低気圧が直撃しました。このとき、小学生の女の子が乗った車が脱輪して動けなくなり、彼女を守っていたお父さんが凍死してしまった痛ましい出来事がありました。娘さんは無事で、きちんと女の子のコメントも拾うことができたし、パーフェクトなリポートでした。でも、視聴者からの評判はよくありませんでした……」  事故の詳細を過不足なく伝える。従来のセオリーで言えば、それは「パーフェクトなリポート」のはずだった。しかし、その「従来のセオリー」が、変容しつつあるのが、この頃のことだった。 「プロデューサー、演出担当者に言われたのが、“たぶん、かわいそう過ぎたんだと思います”ということでした。それまでは遺族にマイクを向けて、そのコメントをテレビで流すことはしばしばありました。でも、その考え方はもう通用しないのかもしれない。そんなことを意識したのが、このときのことでした」  確実に時代は変わろうとしていた。現場リポートも変化を余儀なくされていたのだった。
次のページ
「弱い者イジメ」をするリポーター
1
2
1970年、東京都生まれ。出版社勤務を経てノンフィクションライターに。著書に『詰むや、詰まざるや〜森・西武vs野村・ヤクルトの2年間』(インプレス)、『中野ブロードウェイ物語』(亜紀書房)など多数

記事一覧へ
おすすめ記事