更新日:2021年07月12日 12:30
スポーツ

89歳の広岡達朗が明かす、長嶋茂雄との“不仲説”の要因

長嶋茂雄と組んだ三遊間コンビ

広岡達朗 これまで多くは語られてこなかった広岡の現役時代から話を始めたい。早稲田大学で4度の優勝を果たし、東京六大学野球のスター選手として巨人に入団したのが昭和29年。1年目から遊撃手のレギュラーになり、巨人の看板選手となった。  東京六大学のスターからプロ野球のスターとなった選手といえば長嶋茂雄の印象が強いが、長嶋が入団する4年前に広岡がその道を切り開いていたのだ。 「鳴り物入りで入団したからといって、皆から歓迎されたわけではなかった。各々がライバルで弱肉強食の世界。バッティングケージに入って10球ほど打つと、どこからかバットが飛んでくる。誰かが手を滑らせたのかと思ったら、それが『いつまでも打ってないで早く出ろ!』という合図だった。それくらい当時の巨人は厳しかった」

ホームラン15本で新人王に

 広岡の登場は、当時のプロ野球界にとって衝撃的なものだった。それまでの遊撃手といえば、職人気質の小兵というイメージだったが、広岡は180cmの長身で都会的センスを纏い、長い手脚を生かした華麗な守備、強肩強打でスタンドを沸かせた。真新しいショート像の出現だった。  1年目からレギュラーに抜擢され、打率3割1分4厘、ホームラン15本で新人王に輝く。そして前述のように、広岡の入団から4年後には、昭和プロ野球最大のスターである長嶋茂雄が入団。三遊間コンビを組むことになる。 「長嶋は守備が凄かった。どんな球でも回り込まず直角に入る。あの守備は勉強になった。でも、それも入団してから4年間だけだったな。それ以降は普通のサード。ある日なんか『ヒロさん、今日は動けませんから頼みます』って言うと、本当に動かなかったんだから」
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不仲説が流れた要因は?
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1968年生まれ。岐阜県出身。琉球大学卒。出版社勤務を経て2009年8月より沖縄在住。最新刊は『92歳、広岡達朗の正体』。著書に『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社)、『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』(KADOKAWA)、『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『偏差値70の甲子園 ―僕たちは文武両道で東大を目指す―』、映画化にもなった『沖縄を変えた男 栽弘義 ―高校野球に捧げた生涯』、『偏差値70からの甲子園 ―僕たちは野球も学業も頂点を目指す―』、(ともに集英社文庫)、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『史上最速の甲子園 創志学園野球部の奇跡』『沖縄のおさんぽ』(ともにKADOKAWA)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『永遠の一球 ―甲子園優勝投手のその後―』(河出書房新社)などがある。

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