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89歳の広岡達朗が明かす、長嶋茂雄との“不仲説”の要因

大男たちが一投一打に命を懸けるグラウンド。選手、そして見守るファンを一喜一憂させる白球の行方――。そんな華々しきプロ野球の世界の裏側では、いつの時代も信念と信念がぶつかり合う瞬間があった。あの確執の真相とは?あの行動の真意とは?68年にわたりプロ野球に携わってきた重鎮、広岡達朗の確執と信念をひもとく。

誰よりも“人”を残した名将が今明かす“打撃の神様”との衝突

広岡達朗

’63年、大スターとなったONに挟まれ取材を受ける広岡(当時31歳)。広岡にとって長嶋は4年、王は8年後輩にあたる

【画像をすべて見る】⇒画像をタップすると次の画像が見られます  広岡達朗、89歳。今のプロ野球界を大上段に斬ることができる唯一無二の男だ。長嶋茂雄だろうと王貞治だろうと、広岡にかかればひとたまりもない。“老害”と見る向きもあるが、広岡ほど誰にも忖度なく持論を投げつけられる野球人は他に類を見ない。’54年に巨人に入団して以来、実に68年もの間プロ野球に携わり続けてきたがゆえの矜持でもある。  広岡の現役時代を克明に覚えている読者はほとんどいないだろう。現役としての最終出場は’66年。今から55年も前のことである。  監督としてはヤクルト、西武で7シーズン指揮を執り、リーグ優勝4回、日本一3回という輝かしい実績を持つ。  名将と呼ぶにふさわしい記録だが、監督時代の広岡は「徹底した管理野球」、「非情采配」といったネガティブな要素が取り沙汰され、“冷酷な指導者”というイメージが今もつきまとい続けている。禁酒、禁煙、禁麻雀、果ては選手に「玄米を食べろ」と強要したという逸話が管理の徹底ぶりを示すエピソードとして語り継がれているが……。 「あれは管理ではなく教育です。日本食から洋食まで取り入れたバイキングの中に玄米も含まれていた、というだけです。マスコミが大げさに書いたおかげで、“玄米を無理やり食わせる管理野球”というイメージが先行しているだけ。今でいう“食育”のはしりですよ」  広岡は背筋をピンと伸ばし、矍鑠とした姿でそう話す。かつてベンチ内で毅然と立っていた姿を彷彿とさせる威厳を、今も保っている。他を寄せ付けない“怖さ”は目の奥に潜むものの、すべての質問に淀みなく答えてくれた。

広岡達朗が育てた“14人の監督”

 広岡が日本プロ野球史に残した偉大な功績が3つある。  まず、両リーグで監督を務め、チームを日本一に導いたのは三原修、水原茂、広岡達朗の3人しかいない。なかでも2チームの弱小球団を3年以内に日本一に導いたのは、広岡ただひとりである。  そして、巨人入団1年目に残した打率3割1分4厘は、現在でも大卒ルーキーの最高記録でもある。  特筆すべきは3つ目、広岡は監督時代に指導した幾多の選手から、のちの監督経験者を14人も輩出している(田淵幸一、東尾修、森繁和、石毛宏典、渡辺久信、工藤公康、辻発彦、秋山幸二、伊東勤、大久保博元、若松勉、大矢明彦、尾花髙夫、マニエル)。これは、史上空前のV9を成し遂げた川上哲治、知将・野村克也、闘将・星野仙一でもなし得なかった数字だ。  監督にとって最も重要な責務は、チームを勝利に導くために選手を育てていくこと。これはチームを、ひいては野球界を次世代に繫いでいくのと同義でもある。その観点から言うと、広岡はその責務を誰よりも果たし、プロ野球界に誰よりも“人”を残したということになる。  だが、その生きざまは必ずしも聖人君子と呼べるものではなかった。むしろ自身の信念を貫くためには監督や偉大な先輩との衝突を辞さない、プロ野球界での“尖った男”の先駆けだった。
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長嶋茂雄と組んだ三遊間コンビ
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