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「過労死ライン超え」吹奏楽部の歪んだ音楽性。完璧を求めることの是非とは

学校という“閉鎖空間”で生まれる歪み

吹奏楽部 この言葉を受けて、イッサーリスは人生には音楽以外にも重要なことがあると語りかけるのです。 <本をたくさん読んで教養を身につけ、あらゆる芸術への評価眼を養って、幅広く文化的な素養をそなえることは、とてつもなく大きな満足とわくわくする高揚感を得られるのと同様に、重要だ。  なおかつ、言うまでもないが、自分の健康管理をしなきゃならないし、尽きることのない大自然の美しさを享受する必要がある。>(pp.68-69)  平日だけでなく、夏季、冬季の長期休みも部活動に支配されていたとしたら、恐ろしいことです。学生にとって大事なのは、抜きん出た吹奏楽部員になることではなく、総合的な人格を形成することなのですから。  ゆえに、授業と部活動だけで1日が終わる学生生活など、本来あってはならないのです。  そして学生ブラスバンド問題を複雑にしているのは、吹奏楽というジャンルの位置づけです。当然オーケストラではないし、軽音楽部でバンドを組むのでもない。どちらかと言えばクラシック音楽っぽい雰囲気だけど、そこまで伝統的な指導法があるわけでもない。なのに、妙な覚悟を要求される特別感を醸し出している。  こうして、学校という閉鎖空間にニッチな価値観が合わさると、“密室の秘技”が生まれる。そこに指導力を持つ“カリスマ顧問”や、先輩と後輩における前時代的な上下関係が入り込む余地が生まれてしまうのですね。  すると、そのコミュニティ内でしか通用しない「芸」が絶対化されてしまい、外部からの批判が届かないサークルを形成してしまう。

疑問を持つ気力すら奪われていたのではないか?

 第二次大戦での日本軍の敗戦から、その国民性を論じた『日本はなぜ敗れるのか 敗因21ヵ条』(山本七平 角川書店刊)に、ブラック部活の出現を予見していたかのような箇所があります。 <“芸”は結局、いわゆる“しごき”を中心とする一対一の徒弟制度的教育方法でしか伝授できない。(中略)従って、ここできたえられた兵隊というのは“東洋の魔女”(筆者註・1964年の東京五輪で金メダルを獲得した女子バレーボールチームのこと)のような存在だから、魔女が引退すれば、戦力はガタ落ちになってしまう。  チームの中に一人魔女が残っていたところで、無力である。またこの魔女は、コートもルールも全く違う戦場(フィールド)に出されれば、やはり戦力にはならない。さらに、これが兄弟子の欠如という形になるが、人々がその“芸”の有効性に疑いをもたざるを得ないようになれば、その教育の場は全く空洞化し、単なるリンチの場にしかならなくなる。>(p.195)  自殺してしまった生徒は具体的なイジメを受けていなかったかもしれません。けれども、過労死ラインを超える活動を余儀なくされていたという事実自体が、“リンチ”に近い状態だったと言えるのではないでしょうか。  また、部全体として長時間の活動を当然のものと受け入れてしまう環境では、もはや“芸”の有効性に疑問を持つ気力すら奪われていたと考えるのが自然です。  そうした不合理を客観視するために必要な一般常識や教養を養う時間も持てずに追い込まれていったことを想像すると、本当にいたたまれなくなります。
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芸術の持つ厳しさとは…
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音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。Twitter: @TakayukiIshigu4

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