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「過労死ライン超え」吹奏楽部の歪んだ音楽性。完璧を求めることの是非とは

芸術の持つ厳しさとは…

吹奏楽部 さて、ここまで筆者が書いてきたことに対して、不快に思う人もいるかもしれません。“厳しさに耐えて物事を成し遂げる情熱を否定するのはけしからん”とか、“みんながみんなツラい思いをしているわけではないのだから言い過ぎだろう”とか。  もちろん、筆者もそうした考え方をすべて拒絶するものではありません。けれども、それはたかだか学校の部活動で、必ず経験しなければならないものなのでしょうか?  そうして無抵抗なまま芸が絶対化、ないし正当化されたスモールサークルでは、一体何が失われるのでしょうか?  アメリカのロックミュージシャン、ベックが子供時代から変わらないモットーを明かしていました。 <僕は子供の頃いつも間違いを探していた トーク番組を見れば出演者が失言しないか いすが倒れないかとかね   それはまるで宇宙のウインクだ 割れ目があってその割れ目が開こうとしていたのさ> (『ベック:パーマネント・ミューテーションズ』U-NEXTで配信中)  つまり、ミスをおかしたり目の当たりにしたりすることによって、人は初めて真剣に物を考え、新しい視点を得ることができる、ということなのですね。本来、芸術の持つ厳しさとは、予期せぬ出来事や自らを超えた圧倒的な存在に対して、その都度自らと照らし合わせて認識を更新し続けていくことにあるはずです。

不幸な健気さが醸し出す「不気味さ」

 まだ若い中学生や高校生であれば、なおさら間違う権利を主張してもいい。筆者がブラスバンドや合唱のドキュメンタリーを見たときに感じる気持ち悪さは、こうした特権があることすら知らされていないかのような、不幸な健気さからきているのだと思います。  真空地帯では、思考や感情は起動しないのです。  自殺した生徒も、本来は音楽が好きで吹奏楽部に入部したはずです。にもかかわらず、なぜその気持ちを育む方向に部活が機能しなかったのか。  昨今、教員の負担を減らすべく、指導や管理を外部に委託する動きが現場で見られています。それも大切なことです。しかし、同時に過酷な指導に結びつく精神性や思想に本気で向き合わない限り、同じ悲劇は繰り返されるでしょう。  だから、批判を承知の上で言わなければならないのです。  あくまで、部活動はオマケ。いまこそ、大人の側に割り切る勇気が求められているのかもしれません。 文/石黒隆之
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。Twitter: @TakayukiIshigu4
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