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今でもチーマーが多い印象が…「都会でも田舎でもない」池袋が他の街と比べて“特殊”な理由

“もうひとつ”の池袋が舞台の作品は…

「完全な都会」でも「完全な田舎」でもない、「池袋」という土地の「周縁性」が、登場人物たちの境遇とマッチしているのではないか。このように見ていくと、完全な都会と完全な田舎の間に挟まれた、池袋という街の絶妙なポジションが見えてくる。 池袋ウエストゲートパークの数年後、またもやカラーギャングをテーマにした作品が、池袋を舞台にして書かれた。2004年に出版され、テレビアニメにもなった『デュラララ!』だ。本作の登場人物たちの年齢は高校生で、『池袋ウエストゲートパーク』より年齢は下になっているものの、やはり方向としては、カラーギャングなどに代表される「周縁に集うもの」の群像劇が描かれている。 この点においては『池袋ウエストゲートパーク』とほとんど同じなのだが、一点だけ、『デュラララ!』には興味深い点がある。 それが、「オカルト」への着目だ。 本作は、池袋に現れるという「首なしライダー」の都市伝説が、話の軸として進んでいく。また、それ以外にも数々の非日常的な出来事に登場人物たちは遭遇する。民俗学の知見を借りるならば、このような非日常的な、オカルティックな出来事が起こるのは、やはり「周縁の場所」である。

“チャイナタウン化”も池袋ならではの現象?

例えば、妖怪が現れる場所は、人間が立ち入ることが難しい山奥と、人間が住む都市の間、つまり「山里」であり、その山里は中心と辺境の間に位置する「周縁」である。人間が、人間ならざるものに出会う場所は、いつも「周縁」であり、その点において、『デュラララ!』がオカルトを一つのテーマにしていることは、「周縁としての池袋」の姿をよく表しているだろう。 そうはいっても、『池袋ウエストゲートパーク』や『デュラララ!』が描いた池袋はすでに20年以上も前の池袋の姿だから、現在の池袋とは異なる部分も多い。しかし、「周縁としての池袋」は現在の池袋でも見ることのできる特徴だ。例えば、2010年代から形成されたチャイナタウンにはその特徴が顕著に現れている。社会学の理論によれば、こうした外国人街が形成されるのは、中心市街から少し離れた場所であり、そこにも「周縁としての池袋」の姿がよく現れている。 池袋を舞台にしたいくつかの作品を見ていくと、そこでは繰り返し「周縁としての池袋」が描かれているのである。 ところで、『デュラララ!』が「オカルト」をテーマにしていることは、実は「周縁としての池袋」を表す機能以外にも、重大な意味があると私は考えている。それは、池袋が昔から「オカルト」と関係性が深い街であったからだ。どういうことなのだろうか。また近いうちににまとめて紹介してみたいと思う。 <TEXT/谷頭和希>
ライター・作家。チェーンストアやテーマパークをテーマにした原稿を数多く執筆。一見平板に見える現代の都市空間について、独自の切り口で語る。「東洋経済オンライン」などで執筆中、文芸誌などにも多く寄稿をおこなう。著書に『ドンキにはなぜペンギンがいるのか』(集英社)『ブックオフから考える』(青弓社)
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