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マック鈴木が「NPBを経由していない初めての日本人メジャーリーガー」になれたワケ。グラブも持たず渡米したのに…

ヤクルトのユマキャンプで芽生えた思い

サムライの言球 1993年には、団の力添えにより、野村克也が監督を務めるヤクルトのユマキャンプに参加することになった。 「川崎憲次郎さん、伊藤智仁さん、そして石井一久さん、彼らのボールはすごかった。このとき、プロってすごいな、自分ももっと練習しなければ、という思いになりました」  このとき、池山隆寛や広沢克己(のち廣澤克実)ら、当時の主力打者を相手に紅白戦で登板するという話が持ち上がったが、「野球協約に抵触する恐れ」があり、「もしも抑えられたらプロの面目が立たない」との理由で実現しなかった。 「仮に打たれたとしても、抑えたとしても、絶対に後にいい思い出話として盛り上がったでしょうね。あのときは肩も壊れていなかったから、投げていればどんな結果になったのか楽しみでしたけどね」

メジャーキャンプ初日の悲劇

 1993年9月、彼はシアトル・マリナーズとマイナー契約を結んだ。トロント・ブルージェイズやアトランタ・ブレーブスからもオファーがあった。マックの底知れぬ能力はメジャースカウト陣にとっても大きな魅力となっていた。  しかし、満を持して挑んだ1994年スプリングキャンプ初日、「事件」が起こった。  日本のプロ野球を経験しない初めてのメジャーリーガーとなる可能性を秘めた18歳の若者。その動向に密着するために、日本から100人以上のマスコミが大挙していた。満足な自主トレが行えず、コンディションに不安の残るなかマックはブルペンに入った。 「いきなり、当時のマリナーズのエース、ランディ・ジョンソンと一緒のA班でブルペン入りしました。最初は、軽く投げればいいか、と考えていたのに、つい思い切り投げたら、肩を壊してしまって……」  周囲の注目が集まる中で、18歳の少年は右肩に起きた異変を誰にも打ち明けることができなかった。だましだまし投げていたものの、5月にはまったく投球できなくなり、その年のオフに内視鏡手術を受けることになってしまった。 「今から思えば誤ったトレーニングで可動域が狭くなり、頭でイメージすることと、実際の動きとのズレが生まれたまま投げたのが原因でした。この日以来、引退するまでずっと右肩が万全の状態に戻ることはありませんでした」
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マイケル・ジョーダンとの邂逅
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1970年、東京都生まれ。出版社勤務を経てノンフィクションライターに。著書に『詰むや、詰まざるや〜森・西武vs野村・ヤクルトの2年間』(インプレス)、『中野ブロードウェイ物語』(亜紀書房)など多数

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