「生存率はどのぐらいでしょうか?」
「それはネットで検索してください」
これは約5年前、
M.C. BOO(エムシーブー)さんが医師から「
舌がん」のステージ4を告げられた際のやりとりだ。そして、何気ない日常生活が一転する——。
M.C. BOOの軌跡
かつてBeastie Boysと共演を果たし、全米デビューを果たしたM.C. BOOさん
1980年代から90年代にかけて一世を風靡し、“ヒップホップ黄金期”に活躍したニューヨーク発のヒップホップグループ「Beastie Boys(ビースティ・ボーイズ)」は、数多くの名曲を残し、伝説的なグループとして知られている。そんなビースティ・ボーイズとライブで共演を果たし、全米デビューを飾った日本人がM.C. BOOさんだ。
学生の頃からラップパフォーマンスを行っていたM.C. BOOさんは、ビースティ・ボーイズの日本ツアーに参加したことがきっかけで、ラップユニット「
脱線3」のレコードデビューにつながり、吉本興業の音楽部門初のアーティストとして活躍するなど、ジャパニーズヒップホップシーンの黎明期を支えた。
2000年代に入ってからは、スニーカーブランドやアパレルブランド、イベント等のプロモーションやプロデュースなどを手がけ、クリエイティブディレクターとしての仕事もこなすように。さまざまなジャンルと横断的に関わりながら、独自の審美眼とネットワークを築いていったのだ。
クリエイティブ関係の仕事に才覚を見出したM.C. BOOさんは、順風満帆な人生を送っていたかのように見えた。
しかし、2019年に衝撃的な出来事が起きる。予想もしなかった「舌がん」ステージ4の宣告……。闘病生活を経て、たどり着いた境地とは何なのか。
現在は社会復帰し、株式会社ヘラルボニーのアカウント事業部でクリエイティブプロデューサーとして勤めているが、今回は、M.C. BOOさんの歩んできた軌跡を紹介しながら「人生が暗転したような気分だった」という宣告の瞬間までを振り返る。(記事は全2回の1回目)
M.C. BOOさんは「脱線3」のメンバーとして活動していた(本人提供写真)
M.C. BOOさんは高校時代からヒップホップのグループを組んでいたという。当時はインターネットもなければYouTubeもなかった。そのため、ラップやDJの仕方がわからないところからスタートし、仲の良い同級生にDJをやってもらいながら、“遊び半分”で音楽を楽しんでいたとか。
「神戸出身なので、関西を中心にクラブでライブを行っていました。すごく楽しかったけど、80年代後半から90年代初頭の日本は、“ラップ”と言っても『サランラップ?』と聞き返される時代。これでは到底、ラップだけでは飯は食えないなと思っていました」(M.C. BOOさん、以下同)
転機になったのは、1992年にビースティ・ボーイズが大阪と東京でライブ公演を行った際に、M.C. BOOさんがラップのフリースタイル(即興)に呼ばれたことだった。
飛び入りでラップに参加したつもりが、ビースティ・ボーイズのメンバーに深く気に入られたことで、ライブの半年後にアメリカの大手レーベル「キャピトル・レコード」からM.C. BOOさんのフリースタイルが収録されたレコードが発売されたのである。
「メジャー・フォース(日本初のクラブミュージック・レーベル)を設立した高木 完さんのもとに、ビースティ・ボーイズからレコードやテープのサンプル音源が届いたんです。そしたら、『これ、BOOのラップ入ってない?』という話になって。どうやらサンプルだなと思っていたら、いつの間にか世界デビューしていたんですよ」
それ以来、日本国内のライブはもとより、Run-D.M.C.やDe La Soul、Digital Undergroundといった海外アーティストのフロントアクトの仕事が多く舞い込むようになった。
EPICソニーから発売された脱線3のCD「サタデーアップタウン」のジャケット(本人提供写真)
「その頃はすでに『スチャダラパー』が売れていた時期でしたが、来日するミュージシャンの関西のフロントアクトは、僕たちが結成した『脱線3』がほとんど務めていたんですよ。そんな折に、高木さんから『メジャーフォースで1stアルバム出そう』と誘われて、1994年に発表しました。
プロデュースは高木 完さんとスチャダラパーのshincoさん。当時のキャッチフレーズは“西のスチャダラパー”という風に売り出してましたね。おかげさまでCDもたくさん売れて、その後はEPICソニーと契約してメジャーデビューすることになったんです」
1986年生まれ。立教大卒。ビジネス、旅行、イベント、カルチャーなど興味関心の湧く分野を中心に執筆活動を行う。社会のA面B面、メジャーからアンダーまで足を運び、現場で知ることを大切にしている
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