雑学

プロレス都市伝説になった“人間風車”ロビンソン――「フミ斎藤のプロレス講座」第28回

ロビンソン70年代前半ポーズ

人間風車”ビル・ロビンソンの全盛期のポーズ写真。定番のパープルのショートタイツはロイヤル・カラー=王室のイメージだった。

 東京・高円寺には【このあいだビル・ロビンソンを目撃した】という都市伝説がある。JR中央線・高円寺の駅前をロビンソンが歩いていた。駅の北口ロータリーのすぐそばにあるドーナツ屋さんの奥の喫茶コーナーでロビンソンがコーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。南口の商店街の裏のほうの居酒屋でロビンソンがお酒を飲んでいた――。

 ロビンソンが環状七号線沿いの歩道を歩いているところを見かけた。コンビニのレジ袋をさげて早稲田通りを歩いているところを見かけた。「あ、ビル・ロビンソンだ!」と声をかけたら、ロビンソンがこっちを向いてニッコリ笑って手を振ってくれた……。エトセトラ、エトセトラ。

 それは都市伝説だから「友だちの友だちが目撃した」とか「知り合いの知り合いがそう話していた」といった曖昧な証言ばかりだけれど、“目撃情報”そのものはいまも後を絶たない。しかし、現実にはロビンソンはもうここにはいない。

「いまだによくいわれるんですよ、先生のこと」と宮戸優光(みやと・ゆうこう)UWFスネークピット・ジャパン代表は語る。ロビンソンが最後に高円寺の商店街をてくてく歩いていたのは2012年(平成24年)の9月から10月ごろで、そのまえに高円寺に滞在していたのは2008年(平成20年)8月から12月までの5カ月間だった。

 ほんとうだったら昨年(2014年=平成26年)3月にも2年ぶりで日本にやって来る予定で、すでに航空チケットの手配もすんでいたが、ロビンソンは同年3月3日、米アーカンソー州リトルロックの自宅で死去。眠るように天国に旅立っていった。75歳だった。

“人間風車”ビル・ロビンソンといっても、いまどきのプロレスファンにはあまりピンとこないかもしれない。1938年9月18日、イングランドのマンチェスター生まれ。本名ウィリアム・A・ロビンソン。ビルまたはビリーはウィリアムの愛称で、日本ではビル・ロビンソン、アメリカではビリー・ロビンソンがリングネームだった。

“人間風車”はもともとはロビンソンの代名詞であるダブルアーム・スープレックスの和訳=邦題だったが、ある時期からロビンソン自身のニックネームになった。

 プロレスラーというよりもレスリングの求道者で、少年時代から学んだランカシャー式レスリングの延長線上に職業としてのプロレスがあった。

 曾祖父ハリー・ロビンソンはボクシングの元ブリティッシュ・ブラスナックル王者。伯父アウフ・ロビンソンもボクシングの元ヨーロッパ・ヘビー級王者で、のちにプロレスに転向。父ウィリアム・ジェームス・ロビンソンはライトヘビー級のボクサーだった。

 ロビンソンも少年時代はボクシングを志したが、11歳のときに右目の眼球を負傷して視力を失い、ボクサーになる夢を断念。14歳から“スネークピット=蛇の穴”の異名で知られるイングランド・ウィガンのビリー・ライレー・ジムでキャッチ・アズ・キャッチ・キャンを習いはじめた。

 1958年6月、19歳でプロレスラーとしてデビューしたロビンソンはイギリス国内をはじめフランス、ドイツ、ベルギー、スペイン、ポルトガルのトーナメント・ツアーに出場。1960年代前半はインド、ネパール、レバノン、リビア、エジプトといったアジア、中東の各国でプロレスではないプロレスを体験した。

“人間風車”ダブルアーム・スープレックスは、ドイツ遠征中にブービー・アールというミュンヘン在住の元オリンピック選手から伝授されたものだった。

 1968年(昭和43年)4月、国際プロレスの『日英チャンピオン・シリーズ』に初来日。同年11月の『第1回IWAワールド・シリーズ』に再来日し、同リーグ戦に優勝して初代IWA世界ヘビー級王者となり、“日本組のガイジン”として翌1969年(昭和44年)4月まで半年間、日本人選手の強化コーチを兼ねて東京・目黒に滞在した。

 当時はまだ外国人選手=イコール=悪役レスラーの時代だったから、国際プロレスのテレビ中継――TBSが毎週水曜夜7時のゴールデンタイムにオンエア――で反則をいっさいしない正統派として日本組サイドで活躍するロビンソンの存在はひじょうに斬新だった。

 日本からハワイを経由して1971年(昭和46年)にアメリカに移住したロビンソンは、北部ミネソタのAWAと契約。AWAでは“帝王”バーン・ガニアの後継者といわれた時期もあったが、ガニアはロビンソンを次期世界王者候補ではなく“ガニア道場”の監督に任命した。

“新弟子時代”のリック・フレアー、アイアン・シーク、ケン・パテラ、サージャント・スローターらがロビンソンのコーチを受けた。

 日本におけるロビンソンのいちばんの名勝負は、たったいちどしか実現しなかったアントニオ猪木との60分3本勝負のタイトルマッチ(1975年=昭和50年12月11日、東京・蔵前国技館)だった。1-1のタイスコアから60分時間切れドローに終わったNWFヘビー級選手権はいまでも“伝説の一戦”として語り継がれている。

 ロビンソンと猪木、というよりもロビンソンと新日本プロレスの関係はなぜか1シリーズで“凍結”され、ロビンソンはそれから半年後に全日本プロレスに移籍。“もうひとつの夢の対決”としてマッチメークされたジャイアント馬場対ロビンソンのPWFヘビー級選手権60分3本勝負は、2-1のスコアで馬場が完勝して同王座防衛に成功した(1976年=昭和51年7月24日、東京・蔵前国技館)。

 結果的に猪木とは引き分け、馬場には2フォールを奪われての敗北という記録が残った。猪木との試合について語るときのロビンソンは雄弁だったが、馬場との試合についてはあまり多くを語らなかった。

 全日本プロレスのリングではジャンボ鶴田を下しUNヘビー級王座(1977年=昭和52年3月5日、秋田)、キラー・トーア・カマタを下しPWFヘビー級王座(1978年=昭和53年6月12日、愛知・一宮)を獲得。のちに三冠ヘビー級王座として統一される3本のチャンピオンベルトのうちの“二冠”をロビンソンが保持していたという事実はやや意外な感じがする。

 その後、1985年(昭和60年)の引退まで年1、2回のペースで全日本プロレスのシリーズ興行にレギュラー参戦した。

 引退後、ラスベガスのホテルでセキュリティーとして働いていたロビンソンは、1992年(平成4年)に“鉄人”ルー・テーズの紹介でUWFインターナショナルの専任コーチに就任し、同団体の支部があったテネシー州ナッシュビルに道場を開設。テネシーでは“U仕様”のアメリカ人レスラーを育成し、東京・世田谷のUインター道場では田村潔司、髙山善廣、桜庭和志ら新人(当時)をコーチした。

 ロビンソンのレスリングの旅にはまだつづきがあった。1999年(平成11年)3月、Uインター所属選手だった宮戸が高円寺にレスリング&格闘技道場“UWFスネークピット・ジャパン”をオープンし、ロビンソンにヘッドコーチ就任を依頼した。

 小学6年生のときに猪木―ロビンソン戦を観てプロレスを志した宮戸は、なにがなんでもロビンソンに日本に住んでもらい、ホンモノのランカシャー式レスリングを“布教”してもらおうと考えた。

 60歳になったロビンソンは――国際プロレスの専属ガイジン選手として東京での長期滞在生活を経験してから30年後――大きなスーツケースを引っぱってほんとうに高円寺に引っ越してきた。

“日本の蛇の穴”にはプロレスラー志望の若者だけでなく、子どもからおとなまでさまざまな年齢層の道場生が集まってきた。キャッチ・アズ・キャッチ・キャンを教えるようになったロビンソンは、高円寺のワンルーム・マンションに2008年12月まで滞在。その後も2年にいちどくらいのペースで高円寺に帰ってきた。トータルで10年近く高円寺に住んでいたけれど、日本語はあまりおぼえなかった。

 日本の食べものはだいだいなんでも食べられたし、中華料理も韓国料理も好きだった。熱い風呂とサウナが大好きで、健康ランドに行くと3時間くらいかけてゆっくり汗を流した。ヒザが悪く、ジョギングのようなことはできなかったため、毎日1、2時間の散歩を日課にしていた。

 高円寺を歩けば――もちろん、そんなはずはないけれど――いまでもロビンソンにバッタリ出逢えるような気がする。“人間風車”の幻影はあちこちに残っている。3月3日はロビンソンの一周忌である。

斎藤文彦

斎藤文彦

文責/斎藤文彦 イラスト/おはつ

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※このコラムは毎週更新します。次回は、3月4日~5日頃に掲載予定!




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