雑学

高山善廣がジャイアント馬場の目を意識した瞬間

高山善廣

高山善廣選手 写真提供/大甲邦喜(たいこう・くによし)

 高山善廣(たかやま・よしひろ)のプロレスラーとしてのキャリアは24年。いろいろ回り道をして、悩んだり、あきらめかけたりしてからプロレスの道を選んだから、デビューしたのは25歳のときで、ほかの同世代の選手たちとくらべるとかなり遅かった。来年は50歳になる。

 1991年(平成3年)にUWFインターナショナルに入門し、翌92年(平成4年)6月にデビュー。96年(平成8年)12月にUインターが活動を停止すると、翌97年(平成9年)からその後発団体キングダムの所属となったが、同年3月からフリーの立場で全日本プロレスに活動を移した。

 UインターがあのままつづいていたらずっとUインターのリングにとどまっていたかもしれないし、ひょっとしたら“Uの群れ”を離れて別の道を模索していたかもしれない。“プロレスラー高山”は、いつもそのときそのときの自然な流れに身をゆだねてきた。

「全日本のプロレスがまったくできない。Uの動きしかできない。ロックアップもしない。まあ、ヘッドロックくらいはマネごとでやってましたけど」

「ぼくの試合を(実況席で)解説していたジャイアント馬場さんが『この子は寝たらなんにもできないなあ、立ったらいいんだけど』とコメントしてくれてたんです。あとからビデオで自分の試合を観て、そのとき初めてぼくは馬場さんの目を意識したんです」

 1998年(平成10年)5月から全日本プロレスのシリーズ興行にレギュラー出場するようになった高山は、翌99年(平成11年)に同団体に正式入団。Uインター時代の先輩たち、田村潔司(たむら・きよし)と金原弘光(かねはら・ひろみつ)はリングスへ、後輩の桜庭和志(さくらば・かずし)と山本健一(やまもと・けんいち)はそれぞれ高田道場、リングスに移籍した。

「ほんとうに強いやつは“あっち”に行った、という声が聞こえてきたんです。ぼくのなかではそれがムカついた。でも、いまはプロレスをしっかりやらなきゃと思った。三沢(光晴)さん、小橋(建太)さんと試合をすることにすごく意欲を持っていた。このふたりとやることで自分がプロレスラーとして上がっていくことを確信していました」

「なにも考えずにぶつかっていけばいい試合になる。投げたボールをキャッチして、ちゃんと返してくる。三沢さんはすごかったスよ。小橋さんは胆が据わったレスラーでした」

「三沢さんのエルボーを初めて食らったとき、口から脳みそが飛び出るくらいの衝撃だった。こんなの毎日食らってたら死んじゃうよと思ったけど、そのうち、平気になっちゃうんですよね」と高山はなつかしそうに、そして、ちょっと悲しそうにほほ笑む。

 2000年(平成12年)に三沢グループが全日本プロレスから独立してプロレスリング・ノアを設立すると、「あのふたりが行くところに行くしかない」と考えた高山は迷うことなく新団体に参画した。

「そのころ、よくPRIDEを観にいって、試合のあとの打ち上げなんかにも顔を出したりしていた。高田(延彦)さんが『高山、いつ上がるんだ?』なんて冗談っぽく聞いてくるんで、はじめのうちは適当に(返事をして)逃げていたんですけどね」

 高山に総合格闘技、いまでいうところのMMAへのにチャレンジを決意させたのは三沢の「ノアは自由だから」という発言だった。

「三沢さんが『自由だ』というんだからやっちまおう、と思った。ぼくの場合は(格闘家転向ではなく)アントニオ猪木さんの異種格闘技戦。プロレスラーの異種格闘技戦です」

 PRIDEのリングに上がることが決まってからは、昼間はリングスの道場で金原、高阪剛(こうさか・つよし)らとのスパーリングに汗を流し、夜はUWFスネークピットの道場で大江慎(おおえ・まこと)からキックをコーチしてもらった。

 リングスの道場では前田日明(まえだ・あきら)が「おお、よく来たね」と感じよく接してくれた。第2次UWFを体験していない高山にとって格闘王・前田は遠い存在だった。

 結果的にPRIDEでの戦績は0勝4敗。しかし、ノーガード状態でひたすら顔面を殴り合ったドン・フライとの試合はMMA史上に残る伝説の名勝負としていまも世界じゅうのプロレスファン、MMAファンのあいだで語り継がれている(2002年6月23日=埼玉・さいたまスーパーアリーナ)。

 PRIDEでのD・フライとの一戦から3カ月後、高山はプロレスリング・ノアのリングで小川良成(おがわ・よしなり)を下しGHCヘビー級王座を獲得した(2002年9月7日=大阪府立体育会館)。高山にとってはこれが初めてのシングルのタイトルだった。

 高山自身はとくにそれを望んでいたわけではなかったが、格闘家としてのイメージが定着してくると、こんどは新日本プロレスから試合出場のオファーが舞い込んできた。

「垣原(賢人)さん、長井(満也)さん、田中稔、それから高阪。あの時代の新日本はU系の選手にどんどん声をかけていた。強い新日本を取り戻す、かなんか知らないけど、U系が強いと思い込んでいた。ぼくはあまりいっしょにされたくなかったんだけど……」

 プロレスリング・ノアと新日本プロレスのシリーズ興行にかけ持ちで出場するようになった高山は、翌2003年(平成15年)5月、東京ドームのビッグショーで永田裕志(ながた・ゆうじ)からIWGPヘビー級王座を奪取した。

「あのへんが“プロレスラー高山”の全盛期なんでしょうね。だって、そのあと脳こうそくをやっちゃうわけですから」(つづく)

斎藤文彦

斎藤文彦

文/斎藤文彦 イラスト/おはつ

※「フミ斎藤のプロレス講座」第34回

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