WWEスーパースターズもリスペクト!藤波辰爾が目撃したWWE日本公演
―[フミ斎藤のプロレス講座]―
世界最大のプロレス団体WWEの日本公演“WWE Live”(7月3日、4日)のバックステージ潜入リポート、後編をお届けする。
今回のWWE日本公演取材の最大の収穫は――もちろん、たくさんのWWEスーパースターズと接触できたことも大きいけれど――藤波辰爾さんとたくさんおしゃべりができたことだった。
“WWEホール・オブ・フェーマー”として日本公演のゲストに招かれた藤波さんは、両日とも午後3時ちょうどに会場入りした。
WWEサイドは、藤波さん用の控室として“個室”を用意していたが、両国国技館の地下駐車場から関係者入口を通って館内に入ってきた藤波さんは、そういう習い性といってしまえばそれまでのことなのかもしれないが、迷路のような通路をすいすいと通り抜けて、あたりまえのように選手用のドレッシングルーム(西側支度部屋)に入っていった。このあたりの動きは、やっぱり“ボーイズはボーイズ”なのだろう。
ドレッシングルームに荷物を置いた藤波さんは、なんだかうきうきしたような顔でバックステージを突っ切り、選手入場口の黒いカーテンをくぐってアリーナ側に出てきて、まだお客さんのいないアリーナのいちばん後ろの席に腰かけた。
藤波さんがニューヨークのマディソン・スクウェア・ガーデンでカルロス・エストラーダを下しWWEジュニアヘビー級王座(当時はWWWF)を獲得したのは、いまから37年まえの1978年(昭和53年)1月23日。藤波さんはまだ24歳だった。
設営されたばかりのリングのそばでスタッフと打ち合わせをしていたエグゼクティブ・プロデューサーのジョン・ローリナイティス――というよりも元ジョニー・エース――が、藤波さんを見つけるとすぐにアリーナ席後方まで歩いてきて、まずていねいに藤波さんと握手を交わしてから「あとでミーティングをさせてください」とだけ告げ、またリングのほうに戻っていった。
「いまジョニーがやっているような仕事をね、ぼくがニューヨークに行ったころはゴリラ・モンスーン、パット・パターソン、アーノルド・スコーランの3人がやっていた」
ドレスシャツにネクタイ姿のローリナイティスが忙しく動きまわっているのをみて、藤波さんはなつかしそうにほほ笑んだ。
「テレビ撮りの責任者はモンスーンで、プロデューサーのいる部屋は“ゴリラ”と呼ばれていた。いまでもそう? 選手たちをまとめるのはパターソンとスコーラン。スコーランはあまり試合を観ないで、ポーカーばかりやっていて、巡業中にお金が足りなくなった選手たちに“端紙(はがみ)”を出す係だった。いまもそういう人はいるのかな」
藤波さんは、ビンス・マクマホンの“聖域”といわれているゴリラ・ポジションのことをちゃんと知っていた。“はがみ”とは相撲社会の隠語がそのままプロレス用語にアダプトされたもので、ギャラの仮払い・前借りを指す。アメリカのプロレス用語では“ドロウdraw”という。
バックステージに戻ると、こんどはウイリアム・リーガルが英国紳士の笑みをたたえて藤波さんに話しかけていた。リーガルは今回はNXT部門のプロデューサーとして来日したため、観客のまえには姿を現さなかった。
あまり広くは知られていないことだが、アメリカのプロレスラーの多くは、オリジナルのキャラクターを生み出すために自分が尊敬する3人のプロレスラーの個性をかけ合わせる、といわれている。わかりやすくいえば、あこがれの3人のスーパースターを足して3で割ると自分だけのオリジナルのキャラクターになるという考え方だ。
たとえば、ニック・ボックウィンクルがお手本にした3人のモチーフはバディ・ロジャースとフレッド・ブラッシーとザ・デストロイヤーで、サブゥーが教科書とした3人のスーパースターはザ・シークと初代タイガーマスクと“スーパーフライ”ジミー・スヌーカ。これはすごくわかりやすい。
リーガル卿にとっての3人のレジェンドは、藤波さんとニック・ボックウィンクルとピート・ロバーツの3人なのだという。これもまたひじょうにわかりやすい。リーガルが現役時代にマルーン(あずき色)のタイツとリングシューズを愛用していたのは、AWA世界王者時代のニックへのオマージュだった。
「リーガルがそういってたの? なんかね、さっきピート・ロバーツの名前を出してたから、どうしてかなと思ったんだけど。……でも、3人とも地味なレスラーだよね」
藤波さんとゆっくりおしゃべりをするチャンスはなかなかないから、ぼくもいろいろな質問をぶつけてみた。そもそも、藤波さんはどうやって日本プロレス(1971年=昭和46年入門)の門をたたいたのだろうか?
「北沢さんがね、足のケガで別府の温泉で療養しているというウワサを聞いたんでね、それで北沢さんにお願いすればプロレスラーになれるんじゃないかと思って、訪ねていったんだよね、ぼくが16歳のとき」
北沢幹之(きたざわ・もとゆき)といっても、いまどきのプロレスファンにはピンとこないだろう。80年代あたりからずっとプロレスを観ているマニア層のファンにとっては、第一次UWFとリングスでレフェリーをやっていたあの人、といえばわかるかもしれない。
北沢氏は1942年(昭和17年)、大分県東国東郡(ひがしくにさきぐん)出身で、1961年(昭和36年)、日本プロレスに入門。その後、東京プロレス―日本プロレス―新日本プロレスで活躍し、現役時代は本名の北沢幹之をはじめ、高崎山猿吉、新海弘勝、魁勝司とさまざまなリングネームを名乗った。
藤波さんも北沢氏と同じ大分県東国東郡の生まれで、「北沢さんに直談判すれば、同郷のよしみで東京に連れていってもらえるかもしれない」と“16歳の藤波少年”は考えた。いまから45年もまえのエピソードである。
「自転車で行ったんですよ。じゃり道を、半日かけて。何時間くらいかかったのかな。別府市内の温泉旅館を一軒一軒、訪ねて歩いてね。プロレスラーのこういう人、泊まってませんかー、と聞きながらね」
じゃり道のはなしが出たところで、藤波さんの記憶はそれから約2年後の1972年(昭和47年)の春ごろに飛んだ。
「石ころといえばね、新日本プロレスの野毛の合宿所ね、あそこは猪木さんが当時、住んでいた自宅で、いまでも使ってるあの道場は猪木さんの家の庭に建てたんだけど、プレハブの道場を建てるまえにね、山本(小鉄)さんといっしょにね、しゃがみこんで石ころを拾って、土を平らにしてね、ぼくたちがきれいにしたんですよ」
藤波さんは、ドレッシングルームと入場ゲートをつなぐバックステージの通路のまんなかあたりに設置されたTVモニターのまえにイスを置き、モニターの画面でWWEスーパースターズの試合を観ていた。
これから試合をする選手たち、試合を終えてカーテンをくぐってバックステージに戻ってきた選手たちが、次から次へと藤波さんのすぐ後ろを通っていった。
試合を終えたばかりのクリス・ジェリコが、いったん藤波さんの後ろを通過してから、もういちど戻ってきて、藤波さんに両手で握手を求めた。藤波さんが「グッド・マッチ!」と声をかけると、ジェリコは日本式にていねいにおじぎをしながら「ドウモ・アリガトウ・ゴザイマス」と日本語で最上級のあいさつをした。
Tシャツ姿でアップをはじめていたジョン・シーナが、ストレッチ運動の手を止め、藤波さんのところに歩み寄ってきて「How are you, Sir?」といって握手を求めた。藤波さんは、にっこり笑って、ウンとうなずいてからシーナの右手を握った。
藤波さんは、静かな笑みをたたえ、たまに――レスリングの感覚をためすかのように――両手の指先を微妙に動かしながら、無言のまま、ずっとモニターをみつめていた。
文/斎藤文彦 イラスト/おはつ
※「フミ斎藤のプロレス講座」第45回
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