“神様”カール・ゴッチ――フミ斎藤のプロレス読本#053【カール・ゴッチ編エピソード1】
―[フミ斎藤のプロレス読本]―
199X年
カール・ゴッチKarl Gotchの名は、“プロレスの神様”“レスリングの神様”というニックネームとワンセットになっている。
“神様”というニックネームは日本のマスメディアがつけたもので、ゴッチ自身は「わたしこそはレスリングの神である」と語ったことはいちどもない。
なぜ神様なのかというと、それはゴッチが“人間レベル”で日本のプロレス・シーン、あるいは日本のレスラーたちとかかわりを持ったことがなかったからだ。
1924年8月3日、ベルギーのアントワープ生まれ。本名カール・イスタス。そのプロフィルには“空欄”の部分がいくつかあり、ナチス・ドイツの国家社会主義体制のもとで少年時代を過ごし、捕虜収容所内で第二次世界大戦の終戦を迎えたとされる。
終戦から3年後の1948年、ベルギー代表としてロンドン・オリンピック(レスリング=グレコローマン)に出場。ただし、資料によっては、22歳(1946年)のときにドイツでプロレスラーとしてデビューしたとするデータもある。
ベルギーのトーナメント大会(1953年)に出場したときにビル・ロビンソンの叔父でプロレスラーだったアウフ・ロビンソンと出逢い、このロビンソンの誘いでイギリスのウィガンにある“蛇の穴Snake Pit”ビリ・ライレー・ジムを訪ねた。
イギリスでの暮らしが気に入ったゴッチは、そのまま5年間、ウィガンに滞在。このときに、のちにゴッチの代名詞となるサブミッション(関節技)の技術を体得した。
“蛇の穴”の道場では、29歳のゴッチとまだ15歳だった“人間風車”ビル・ロビンソンがスパーリングをおこなったという有名なエピソードがある。
1959年にカナダを経由してアメリカに渡り、カール・クラウザー、あるいはキャロル・クラウザーというリングネームで活動。1961年、オハイオに転戦したさい、プロモーターのアル・ハフトから“ゴッチ姓”を与えられた。
カール・ゴッチというリングネームは、20世紀のアメリカン・プロレスの“始祖”フランク・ゴッチにあやかったもので、名づけ親となったハフトも現役レスラー時代、ヤング・ゴッチを名乗っていたことがあった。ハフトは若き日のゴッチの姿に“家元”フランク・ゴッチのイメージをみたのかもしれない。
ゴッチは1961年(昭和36年)に初来日し、ジャーマン・スープレックス・ホールドを日本のリングで初公開。『第3回ワールド大リーグ戦』で“プロレスの父”力道山と対戦した。
1968年(昭和43年)から1969年(昭和44年)にかけては東京に長期滞在し、日本プロレス協会の強化コーチをつとめ、その後、1972年(昭和47年)にアントニオ猪木の新日本プロレス設立に協力した。
現役選手として猪木と試合をしたときは、50歳という年齢に手が届こうとしていた。すでにアメリカ国内ではツアー生活はやめていたし、レスリング・ビジネスにはあまり興味がなかった。
現役時代のゴッチの試合を鮮明に記憶しているプロレスファンはもうほとんどいないだろう。
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