WWEを選択した理由=野望と不安――フミ斎藤のプロレス読本#067【バンバン・ビガロ編エピソード2】
―[フミ斎藤のプロレス読本]―
199X年
バンバン・ビガロがWWEの全米ツアーに合流した。ビガロにとってはこれが2度めの“WWE生活”ということになる。
ビガロは、新日本プロレスのレギュラー外国人選手となってからわずか半年後の1987年8月、WWEと電撃契約を交わし、いったん日本のリングから姿を消した。
このとき、ビガロは「ジャパンもたしかにいい金になるが、WWEとくらべたら……」「オレの家はニュージャージーにあるから、ニューヨークで仕事ができればありがたい」「フィアンセのデイナと11月に結婚する」ことをWWEを選択した理由として日本のプロレス・マスコミに説明した。
翌年4月の“レッスルマニア4”でメインイベントに出場する可能性があること。ロディ・パイパーやジェシー・ベンチュラのようにハリウッド映画に出演するプランがあること。WWEとの契約内容は年俸40万ドル・プラス・出来高であること。エトセトラ、エトセトラ。このときまだ25歳だったビガロは、とにかくなんでもかんでも包み隠さずしゃべった。
ところが、それからわずか1年後の1988年7月、WWEをあっさり退団したビガロは、すぐに新日本プロレスにUターンしてきて、1年を通じてアメリカと日本を行ったり来たりする“単独ワールド・ツアー”をまたはじめた。
1989年1月7日、昭和天皇が崩御した日――新日本プロレスはこの日と翌日、予定していた興行をキャンセルした――ビガロは、滞在先の新宿・京王プラザホテルの自室でのんびりと1日を過ごし、ほかになにもせず、テレビの報道特番でエンペラー・ヒロヒトと昭和の歩み、第二次世界大戦と戦後の復興、日本のヒストリーをたっぷり勉強した。
昭和が終わり、平成がはじまった日をリアルタイムで体験したビガロは、自分はとんでもない歴史的なできごとに立ち会ったのだ、という意識を持った。ビガロが「ジャパンはオレのテリトリー(縄張り)」と公言するようになったのはこのころからだった。
ベイダーとのコンビで武藤敬司&馳浩を下しIWGPタッグ王者になったこともあったし、大相撲・元横綱の北尾光司のデビュー戦(1990年2月10日=東京ドーム)の相手をつとめたときはビガロの一般的知名度がグンとはね上がり、“バンバン・ビガロ”がテレビのワイドショー番組のキーワードになったこともあった。
その日、自宅のあるニュージャージー州アズベリーパークを出て、約1時間のドライブでニューヨークのラガーディア空港まで来たビガロは、まず国内線直行便でセントルイスに飛び、ここで“スモウ・レスラー”ヨコヅナに変身したコキーナ、ヘッドシュリンカーズ(サムー&ファトゥー)のサモアン3人組と落ちあった。
これから数日間、ミズーリ州とイリノイ州近郊のツアーがつづくため、仲のいいヨコヅナらと割り勘でレンタカーを借りることにした。
ビガロひとりでも図体がデカいのに、超巨漢のヨコヅナらがいっしょだったらとてもふつうの乗用車ではもたない。仲よしグループは、10人乗りのワゴン車に乗っかってロードに出た。ビガロにとってアメリカ国内のツアー生活はほんとうに久しぶりだ。
1
2
⇒連載第1話はコチラ
※斎藤文彦さんへの質問メールは、こちら(https://nikkan-spa.jp/inquiry)に! 件名に「フミ斎藤のプロレス読本」と書いたうえで、お送りください。
この連載の前回記事
この記者は、他にもこんな記事を書いています
ハッシュタグ