レジーねえさんは強くて、やさしくて、涙もろい“日本の女子プロレスラー”――フミ斎藤のプロレス読本#145[ガールズはガールズ編エピソード15]
―[フミ斎藤のプロレス読本]―
2001年
レジー・ベネットはリングに上がったとたん、目に涙をいっぱいためていた。
シルバーのガウンは、5年まえに全日本女子プロレスのリングでバーリトゥードにトライしたときにあつらえたよそいきで、黒をベースにした水着は1998年に新団体アルシオンに入団したときに新調したものだ。
新しいリングコスチュームなんて、もう何年もつくっていない。
プロレスをはじめたときから“満40歳”の誕生日に引退するつもりだった。ボディービルダー時代に友だちに連れられて初めてプロレスの試合を観にいったときは、これが自分の一生の仕事になるとは思いもしなかった。
ひょんなことからタダでハワイに行けることになって、気がついたら“女子プロレスラー”としてバトルロイヤルのリングに上がっていた。ハワイのプロモーターは、あの“ザ・ロック”ドウェイン・ジョンソンの祖母にあたるリア・メイビア女史だった。
女5人、男4人の9人兄弟の上から4番めとして生まれたレジーねえさんは、15歳のときに家出をしてホームタウンのニューオーリンズを離れた。カントリー・バンドのバックコーラス、エアロビクスのインストラクター、スポーツクラブのスタッフと仕事を変えながらサンアントニオ、ロサンゼルスへと移り住んだ。
ハイスクールを卒業できなかったので、20歳のときにGED(高校卒業認定試験)のテストを受けた。
ロサンゼルスで本格的にプロレスの手ほどきをしてくれたのはゲレロ4兄弟の上から2番めのマンドー・ゲレロだった。LA時代のトレーニング仲間にはまだ10代だったエディ・ゲレロがいた。
“ダッターン、ボヨヨン”のCMのオーディションを受けにいったら、それから3週間後にはトーキョーに来ていた。レジーねえさんが日常のすべてをスーツケースにおさめて歩くようになったのは、たぶんそのころからだった。
“ダッターン、ボヨヨン”のCMは、レジーねえさんの知らないところで社会現象になっていた。LAとトーキョーをひんぱんに往復するようになった。
プロレスを本業にするつもりだったら、やっぱりそれができる土地に暮らすのがいちばんいい。女子プロレスラーによる純粋な女子プロレスは、じつは日本にしか存在しない。
ずいぶん、いろいろな団体のリングに上がった。大仁田厚のFMWのリングにはいつも血のあとがこびりついていた。ジャパン女子プロレスは、契約書にサインしたと思ったら、団体そのものがすぐに消滅してしまった。
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