スポーツ

「いい経験でしたよ、決していい思い出ではないけどね」五十嵐亮太が語った“メジャーリーグでの3年間”

―[サムライの言球]―
満を持してニューヨーク・メッツ入りした五十嵐亮太は、想像もしていなかった苦闘の1年目を過ごした。「このままではいけない」という強い思いとともに、新球・カットボールの習得に励み、勝負の2年目に臨むこととなった。 自ら「とても濃密だったけれど、とても苦しかった」と振り返る「あの3年間」を改めて振り返りたい――。

結果を残せずに終わったメジャー1年目

サムライの言球

五十嵐亮太氏

まったく結果を残せずに終わったメジャー1年目の’10年オフ。五十嵐亮太は新たな変化球としてカットボールの習得に励んだ。 「覚悟を決めてアメリカにやってきたのに、思うような結果が残せない。悔しくて仕方がないけど、ならば自分でどうにかするしかない。メジャー1年目を終えて、新たな変化球を覚えること、変化球の精度を上げることという課題が見つかっていたので、まずはカットボールを覚えることにしました」 メジャー2年目を迎えるにあたって、五十嵐にはメンタル面でも大きな変化が訪れている。年明け早々、公式戦出場資格を持つ40人枠から外れることが決まったのだ。 「2年目ともなれば、チームにおいて自分が必要とされているのか、そうじゃないのかということがハッキリします。無駄なことを考えても仕方がないから、まずは現状を受け入れ、2年目はとにかく結果を残すことだけを考えました。自分の置かれている現状を変えるには結果を残すしかないから……」

「こんなに野球と向き合ったのは初めてじゃないか」

ヤクルト時代には間違いなく「必要とされている」選手だった。しかし、アメリカではそうではない。現状を嘆いても、不満を募らせても、事態は決して好転しない。ならば、すべてを受け入れて、がむしゃらに突き進むだけだった。 「こんなに野球と向き合ったのは初めてじゃないか、というくらい向き合いましたね。日本でも向き合ってはいたけれど、その比にならないくらい、アメリカではずっと野球のことばかり考えていました」 しかし、2年目もまた思うような成績を残すことができなかった。硬いマウンドには対応できたものの、多くの投手がそうであるように、ボールに馴染むことができなかった。メジャーとマイナーでボールが違うことも五十嵐を苦しめた。 メッツでの2年間は、通算79試合に登板して5勝2敗、防御率5.7‌4だった。
次のページ
メッツを解雇されてもアメリカに残った理由
1
2
3
1970年、東京都生まれ。出版社勤務を経てノンフィクションライターに。著書に『詰むや、詰まざるや〜森・西武vs野村・ヤクルトの2年間』(インプレス)、『中野ブロードウェイ物語』(亜紀書房)など多数

記事一覧へ
おすすめ記事
ハッシュタグ