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“大洋ホエールズファン”の少年が、最大400人の応援団を結成するまで「1人で一喜一憂するのは寂しい」

「たとえ弱くても応援しがいのあるチーム。私にとってのベイスターズというチームには、そんな魅力があふれているんです」 そう目を輝かせながら話す小島平蔵さん。今年で創設7年目を迎える横浜DeNAベイスターズ応援団「DBワクワク団」(以下「ワクワク団」)を取り仕切っている団長である。
DBワクワク団

横浜公園(横浜スタジアム)の噴水前。最前列の左の白いマスコットキャラクターを被っているのが小島さん

当時の横浜は「圧倒的にジャイアンツファンが多かった」

ベイスターズの本拠地のある横浜で生まれた小島さんは、3歳のときに両親が離婚。一度は母の実家のある大阪で生活していたものの、生活環境が合わずに小学1年生の冬に横浜に戻って父と父の祖父母の4人で暮らし始めた。 「横浜は土地柄もあってか、ジャイアンツファンか、横浜大洋ホエールズ(当時)のファンの2択だったのですが、当時は圧倒的にジャイアンツファンが多かったんです。けれども私はAB型の変わり者ということもあって(笑)、大洋を選びました。小学校5年生のときには、近藤貞雄さんが監督で、高木豊さん、加藤博一さん、屋敷要さんの『スーパーカートリオ』に熱中していましたし、エース格だった遠藤一彦さんのピッチングには惚れ惚れしながら見ていました」

印象深い大洋ホエールズ“投打の柱”

今でも印象に残っているのは、大洋のエースとして君臨していた遠藤一彦投手がアキレス腱を断裂したときと、ファンだった田代富雄(現:DeNA一軍打撃コーチ)の引退試合だった。 「遠藤投手は当時弱かった大洋投手陣の中で唯一の光でした。その遠藤投手が1987年10月3日に後楽園球場で行われた巨人戦で、アキレス腱を断裂した瞬間は、『うわあ、やっちゃった……』と目の前が真っ暗になったのを今でもよく覚えています。そして、田代選手は、長く大洋の中心打者として活躍して、高々と放物線を描く一撃の本塁打に心踊らされていました。引退試合となった1991年10月10日の阪神戦で、満塁本塁打を放ったんです。この年唯一の安打がこの一打で、田代選手にとっての最終打席となったのですが、『最後の最後まで素晴らしい当たりを打ち続けて、楽しませてくれてありがとうございました』と心の中で感謝していました」 その後、横浜大洋ホエールズは1992年11月に「横浜ベイスターズ」へと改称され、2011年12月にオーナー会社が株式会社東京放送ホールディングスから株式会社ディー・エヌ・エーに変更されたのを機に、球団名は現在の「横浜DeNAベイスターズ」へと変更された。
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新橋勤務、千葉在住ではハマスタが遠すぎた
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スポーツジャーナリスト。高校野球やプロ野球を中心とした取材が多い。雑誌や書籍のほか、「文春オンライン」など多数のネットメディアでも執筆。著書に『コロナに翻弄された甲子園』(双葉社)
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