「実質賃金低下」の正体――“反アベノミクス”に反論
連載03【不安の正体――アベノミクスの是非を問う】
▼実質賃金の低下は必然
テレビや新聞などでアベノミクスが批判される際に、必ずと言っていい程出てくるキーワードが「実質賃金」です。実質賃金とは、我々が実際に受け取る名目上の賃金(名目賃金)から物価の変動の影響を取り除いたものです。
例えば、月収が10万円から11万円に10%増えたとします。しかし、この年の物価が20%上がってしまうと、毎月10万円かかっていた生活費が12万円も必要になってしまいます。こうなると、給料は1万円増えたものの、実質的には1万円の給料が減ったことと同じになります。これが実質賃金の低下です。逆に給料が下がってもそれ以上の割合で物価が下がると、実質的に国民の購買力は増えたことになるので、実質賃金は上昇したことになります。
テレビなどでは「アベノミクスによって国民の所得は上昇しているかもしれないが、その分物価が上がっている。結果として国民の実質的な所得である『実質賃金』は下がっているから、実質的に国民の購買力が減少し、国民は貧しくなっている」と報道されています。確かに、このこと自体はまちがっていません。事実です。
それではアベノミクスは失敗なのでしょうか? それも違います。なぜなら、デフレ脱却過渡期には実質賃金は「一時的」に下がる性質があるからです。今から約80年以上前、高橋是清蔵相がデフレ対策を開始した1931年以降も今起こっているような実質賃金の下落が観測されていました。当時の製造業労働者の実質賃金指数は、ダイヤモンド・オンラインの記事『高橋蔵相のリフレ政策を再検証賃金は物価上昇に追い付くか?』によると下記のとおりです。
1931年 106.6
1932年 102.2
1933年 101.5
1934年 101.7
1935年 100.8
1936年 99.0
1937年 97.4
1938年 93.2
高橋是清蔵相の時はデフレ脱却策を始めてから実質賃金がずっと下がり続けています。是清の死後、1938年から日中戦争が始まり、インフレ率が跳ね上がってしまったため、これ以降はあまり参考になりませんが、実質賃金の「一時的」な低下はデフレ脱却過渡期で必ず見られる現象であり、デフレを脱却するためには避けて通れない道なのです。逆に実質賃金を一時的にも引き下げることなくデフレを脱却する方法があるというのであれば、ぜひ教えていただきたいと思います。
実質賃金低下を問題視する多くの方は、政府の財政支出(主に公共事業)拡大によって賃金を下支えするべきだと唱えていますが、それでも賃金の改定は年度開始の4月のタイミングであり、基本的に年一回のイベントです。財政で賃金の下支えをしたとしても、デフレ脱却過渡期には、どうしても賃金の改定は物価に追従する形を取らざるをえないのです。
要するにアベノミクスのようなデフレ脱却策を採ると実質賃金は必然的に下落してしまいます。しかし、デフレ脱却過渡期を抜け、消費者物価の水準が安定すれば、物価の伸びに賃金の上昇が追いつき、やがて実質賃金は上昇に転じるでしょう。一時的にも実質賃金が下がるのが嫌だとおっしゃるのであれば、デフレを今後も維持、継続するしか方法はないと思います。
高橋是清時代の賃金、インフレ率の推移についてはこちらの記事「高橋是清財政とアベノミクスの違いを徹底比較(No.152)」も参考になります。インフレ率と実収賃金(今の名目賃金)の関係を見ると、実質賃金がゼロかマイナスで推移していることがわかります。
▼実質賃金低下により雇用者が増える
アベノミクスの最優先事項は雇用の改善と、失業者を減らすことです。実質賃金の低下は確かに労働者の側から見ると実質的な購買力の低下となるのですが、企業側から見ると実質的に雇用のコストが下がることになります。雇用コストが下がれば、企業はそれだけより多くの従業員を抱えることが可能になるため、雇用者は増え、失業者数が減少します。
ちなみにリーマン・ショック直後の2009年~2010年は実質賃金が上昇(図1)していましたが、この時期、我々日本国民は実質的な所得が増加したことにより生活が豊かになっていたかというと、そうではないと思います。実際は、失業率が急上昇(図2)して雇用はかなり悪化していました。「派遣切り」という言葉が流行ったように、真っ先にクビを切られたのは派遣や非正規労働者でした。もし仮に、まだ十分に失業率が下がり切っておらず、人手不足が深刻化していない2013年の段階で、無理やり実質賃金を引き上げるような政策(どうやって実現するかは不明ですが)を実行した場合、企業が雇用を増やすのかどうかは疑問です。リーマン・ショック直後の派遣切りの再来となっていたかもしれません。
⇒【資料】はコチラ https://nikkan-spa.jp/?attachment_id=861474
⇒【資料】はコチラ https://nikkan-spa.jp/?attachment_id=862871
実質賃金低下による雇用コストの減少、つまり、これがアベノミクスによって100万人の雇用を生んだ要因の一つなのですが、あいかわらず「増えたのは非正規雇用者だけだ」といった批判をよく聞きます。しかし、比較的雇用コストが安い非正規から雇用が拡大するのはごく当たり前のことで、そこからさらに人手不足が進むと企業は非正規雇用者の給料を引き上げて雇用を確保するようになり、それでも人が集まらなければ、正規雇用の求人を拡大せざるをえなくなってきます。
雇用の拡大局面では必ず「非正規→正規雇用」の順で雇用が増えます。正規雇用者は給料が高いだけではなく、一旦雇うと簡単には解雇できません。企業側には大きな雇用リスクが発生するため、まず最初に非正規雇用が増えるのです。いきなりその順番を飛ばして正規雇用が拡大することはありません。
実質賃金の低下は一概に悪いことだとは言い切れませんし、その逆に実質賃金上昇も手放しで喜べるものではありません。失業率が十分に下がりきっていない状態での実質賃金上昇は、半面、失業者の増加を招く可能性があるからです。
▼実質雇用者所得は横ばい
実質賃金は名目賃金と同様に労働者一人あたりの賃金を平均化したものです。したがって、前回の記事『「国民の所得は増えていない」のウソ――“反アベノミクス”に反論』で解説した「平均化の罠」はそのまま実質賃金にも当てはまります。
簡単に説明すると、アベノミクスにより100万人の新規の雇用者が増えましたが、この新規の雇用者のほとんどが非正規雇用という比較的賃金の低い労働者です。そのため賃金を平均化し、均すと一人あたりの賃金は引き下がる方向にバイアスがかかってしまいます。しかし、100万人の新規雇用者が増えた分だけ、雇用者全員が受け取る雇用者報酬は大きく増額しています。図3を見ていただければわかりますが、消費税増税という実質雇用者報酬を2%も引き下げる要因がありながらも、増税後も実質雇用者報酬はほぼ横ばいです。つまり、国民全体の所得で見ると、国民の実質的な購買力は下がっていないということになります。
⇒【資料】はコチラ https://nikkan-spa.jp/?attachment_id=861476(図3)
平均賃金だけを見ていると、新規に増えた雇用者の影響が見えないばかりか、逆にマイナスに見えてしまう場合がありますが、現在のような雇用者が拡大している経済状況では、雇用者の増大がきちんと数値に反映される雇用者報酬を見るほうが適切ではないかと考えます。とはいえ、増税の影響はなかったと言いたいわけではありません。増税がなければ実質の雇用者報酬ももっと大きく伸びていたことでしょう。
▼2015年度の実質賃金は上昇に転じる
政府が発表した3月の賃金統計を受けて、「実質賃金が23ヶ月連続で低下」といった見出しの記事が散見されましたが、これは23ヶ月連続して実質賃金が下がり続けているということではなく、前年比マイナスの月が23ヶ月連続で続いていることを意味しています。図1の実質賃金指数をもう一度見ていただければわかりますが、すでに実質賃金は2014年10月に底を打ち、上昇し始めています。この調子ならば、消費税増税による2%分の物価上昇の下駄が外れる、4~5月以降は前年同月比でもプラスに転換するかもしれません。2015年度の賃上げ率は昨年を上回りますのでその可能性は高いと思います。
原油価格の変動がどう響くかわからないため、まだ先が読めない状況ではありますが、遅くとも夏くらいまでには「反アベノミクス」のために「実質賃金下落」というキーワードが使えなくなるのではないでしょうか。アベノミクスを貶めたい方は、今のうちに次の手を考えていたほうがいいかもしれません。
しかし、繰り返しになりますが、あくまで最重要なのは雇用の改善です。失業率が低下し労働市場が人手不足になると、企業は雇用者を確保するために賃金を引き上げざるをえなくなってきます。まずは雇用の改善が先、賃金の上昇は後からついてきます。
次回の記事では、名目賃金と実質賃金を説明する上で欠くことのできない「貨幣錯覚」について説明したいと思います。
◆まとめ
・デフレ脱却過渡期では「一時的」に実質賃金が下がるのは当たり前。80年前の高橋蔵相の時も実質賃金は低下していた
・実質賃金低下により企業の雇用コストが下がり、雇用は改善している
・実質賃金が上昇すれば国民が豊かになるというわけではない
・失業率が十分に下がりきっていない状態での実質賃金上昇は失業者の増加を招く可能性がある
・実質雇用者報酬はマイナスになっていない。国民の所得総額は増えている
・まずは雇用の改善、人手不足の状況を作る。賃金は後から遅れて上昇してくる
【山本博一】
1980年生まれ。経済ブロガー。ブログ「ひろのひとりごと」を主宰。医療機器メーカーに務める現役サラリーマン。30代子育て世代の視点から日本経済を分析、同世代のために役立つ情報を発信している。近著に『日本経済が頂点に立つこれだけの理由』(彩図社)。4児のパパ
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