番外編その3:「負け逃げ」の研究(6)

 この日は、あと2ハコ回って、滞在のホテルに戻った。

 ドサ回りの方の戦績は、良くもなく悪くもなく。

 教祖さまのいたバカラ卓での勝利分15万HKD(225万円)に、わずかだけ積み増した、という程度だった。

 滞在するホテルのプレミアム・フロアに顔を出したら、日本での友人が一人で打っていた。

 声を掛けずに、卓の背後からすこし観察する。

 万ドル・チップで博奕(ばくち)を打つ人だが、太いわけではない。

 だいたい一手が1万HKD(15万円)から5万HKD(75万円)あたり。

 流れがいいときには、話しかけない。

 これは、わたしの流儀。

 その人のリズムを断ちたくない、という思いやりである。

 仮にその人の名を、岸山さんとしておこう。

 岸山さんが、3万HKDのベットを連続で落としたときに話しかけた。

「どうなの?」

 とわたし。

「あっ、お久し振りです。まあまあですね」

 と岸山さん。

 この人もわたしと似ていて、博奕場では「悪い」とは決して言わない。

 卓の背後から見ていた間は、かなり削られているみたいだったのに(笑)。

 岸山さんは関東の人だが、どういうわけか「ホン引き(手本引き)」から賭博の世界に浸かっちゃった。

 ついでだが、バカラ屋が席捲する以前の日本の非合法賭博界は、

 ――西のホン引き、東のバッタ。

 と言われ、箱根山の東西で賭博種目が異なっていた。

「バッタ」というのは、別名「アトサキ」。

 赤黒二巻の花札を混ぜ合わせ、アトサキに三枚ずつ撒いて、9に近い数字の側が勝つ。

「ホン引き」は、豆札と呼ばれる専用札を用い、胴師が引いた1~6までの数字を当てるもの。

 高いレヴェルの勝負だと、胴師と側師(がわし)の一種の心理戦となり、その控除(テラ)率が高いのにもかかわらず、博奕としては珍しく、打ち手でも「プロ」が存在できる余地を残す賭博ゲームである。

「日本一の博奕打ち」、「最後の博徒」と呼ばれた波谷守之(はだに もりゆき)は、この種目の不世出の俊才だった。

 わたしが知る限り、関東で「ホン引き」がおこなわれている賭場(どば)は、現在存在しない。

 胴師をつとめられる者が居ないからだそうだ。

「サイ本引き」といって、豆札の代わりに賽子(サイコロ)を使ったものがおこなわれることもあるらしいのだが、控除率を考えると「ノーノー(やってはいけない、という意味)」の博奕であろう。

 話を、マカオにある某ハウスのプレミアム・フロアに戻す。

「どれぐらいの予定?」

 わたしは岸山さんに訊いた。

「香港でのビジネスの進行次第ですね。あまりおもわしくない」

 と岸山さん。

「事業を香港でも展開し始めるの?」

 この人の本業は、不動産である。

 しかし、大陸にせよ香港にせよマカオにせよ、もう不動産はバブルの破裂を待つだけ、という状態ではなかろうか。

「新規参入しても、うま味は残っていません。それより、いまのうちにカネを移動させておこうと思って」

 と岸山さん。

 これも遅すぎるのではなかろうか。

 2011年3月に、日本円がUSドルに対して76円台前半をつけている。

 その頃に、おカネを海外に持ち出した日本の人たちは多かった。

 正規の海外投資は別として、オモテに出しづらいカネの場合は、香港を経由したと聞く。

 国際金融や国税OBを核とする「香港四人衆」と呼ばれた日本人の専門集団も存在した。

 現在、「香港四人衆」が活動しているのかどうか、わたしは知らない。

 でも、その下で番頭格で働いていた一人が盛大にパンクした、という話は知っている(笑)。

 マカオでは、結構有名な打ち手だった。

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番外編その3:「負け逃げ」の研究(7)

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PROFILE

森巣博
森巣博
1948年日本生まれ。雑誌編集者を経て、70年代よりロンドンのカジノでゲーム賭博を生業とする。自称「兼業作家」。『無境界の人』『越境者たち』『非国民』『二度と戻らぬ』『賭けるゆえに我あり』など、著書多数。