第5章:竜太、ふたたび(1)

 席前に残ったチップをすべて上着のポケットに突っ込むと、竜太は逃げた。

 クラウン・カジノのプレミアム・フロア「マホガニー・ルーム」を出ると、下りのエスカレーターも使わずに、階段を駆け下りた。

 かっさらってきたチップのほとんどは1万ドル・チップだったのは助かった。これが1000ドル・チップだったりしたら、ポケットには収まりきれるだろうが、量が多いし結構重くなる。

 それでも上着のポケットは垂れ下がり、一歩踏み出すたびにじゃりじゃりと重い音を立てた。

 カジノのドアマンに、

「タクシー、タクシー」

 と問うた。

 指さした方向に駆け出して、はっと竜太は気づく。

 オーストラリア・ドルの現金は、一銭も持っていないのだ。

 おかしなことになった。

 ズボンの方のポケットに入っているのは、日本円で2万円ちょっと。

 上着のポケットには、カジノのケイジ(=キャッシャー)に持ち込めば、即座に7万ドル弱のAUD(=オーストラリア・ドル)となる「現金と同じもの」があった。

 7万AUDをJPY(=円)に換算すれば、630万円である。(この物語は、2006年から現在までつづく。その間、為替交換レートは上下激しく変動したが、混乱を避ける目的で、1AUD=90JPYの固定レートで表記する)

 これまで竜太は、630万円なんて大金を持ち歩いたことがない。

 しかし残念なことに、「現金と同じもの」は、決して現地通貨の「現金」ではなかった。

 それゆえ、タクシーの支払いに使用できないのである。

 運転手ともめて、無賃乗車の容疑で警察に突き出されたりしたら、エライことになる。

 確実にお巡りたちに、ポケットの中の7万ドル分のチップの由来を説明しなければならなくなるのだろう。

 盗んできました、なんて言えるわけがない。

 タクシー・スタンドに向かって走るのをやめると、竜太はとっさに頭の中で計算する。

 真夏のメルボルンの熱気が、竜太の全身を襲った。

 シャツはもちろんのこと、上着やズボンまでもう汗が沁み出している。

 バカラ卓に戻って来た真希は、しばらく竜太の帰りを待つはずだ。

 バーで飲み物を注文しているのか、あるいは自分と同じようにトイレに行ったのか。

 その際、安全のため、カジノ・チップも持ち去った。

 これは充分にありうる想定だ。

 異変を感じるまで、10分間はあるだろう。

 それからディーラーかインスペクターに状態を尋ねる。

 一応、ホテルの部屋に戻って、竜太を探す。

 部屋は、朝に出てきた時のままだ。竜太のバッグも残されている。

 再びマホガニー・ルームに戻り、インスペクターに事情を説明する。

 そこで、竜太に7万AUD弱のチップを持ち逃げされたことに気づく。

 インスペクターからピット・ボスを経て、セキュリティに連絡が入るまで、かれこれ1時間以上はかかるはずだった。

 ならば、カジノのザラ場(=一般フロア)のケイジ(=キャッシャー)で、チップを換金する時間的余裕は充分にある。

 カジノに戻るべきか、戻らざるべきか。

 すでに30度を超しているだろう真夏のメルボルンのカジノの巨大なコンプレックスの前で、水をかぶったように汗まみれになりながら、新宿歌舞伎町のゴキブリばくち打ちの竜太は、まるでハムレットのように悩んだのである。

⇒続きはこちら 第5章:竜太、ふたたび(2)

PROFILE

森巣博
森巣博
1948年日本生まれ。雑誌編集者を経て、70年代よりロンドンのカジノでゲーム賭博を生業とする。自称「兼業作家」。『無境界の人』『越境者たち』『非国民』『二度と戻らぬ』『賭けるゆえに我あり』など、著書多数。