第5章:竜太、ふたたび(2)

 避けられる危険は、避ける。

 新宿歌舞伎町のばくち打ちには、一時なりとも忘れてはならない心得だった。

 そうでもしなければ、命がいくつあっても足りない稼業なのである。

 竜太は、カジノのザラ場(=一般フロア)でチップを換金することを諦めた。

 もしそこにすこしでも危険の匂いが存在するのなら、あえてそれを受け入れるような行動は慎む。

 脚を東に向けた。

 歩く。もう、走らない。

 タクシー・スタンドとは逆方向に向かったのは、そちらのほうが人が多かったからである。

 石を隠さば、石の中。

 人を隠さば、人の中。

 言葉が通じない大都会で、さまざまな髪の色の人間に囲まれ、ポケットに630万円相当のカネを入れた竜太は、街を彷徨(さまよ)う。

 大通りに突き当たり、そこを右折した。

 どこまでも南に向かえば、きっと海があるはずだ。

 竜太の頭の中には、きわめて大雑把なものかもしれないが、メルボルンの地図が存在する。

 ホテルの部屋に残してきた竜太のバッグには、メルボルンの案内本が収められていた。

 成田を出発する前に、それをざっと読んだ。

 なんという名だったか?

 若者たちが集まる街の名を、想い出そうとした。

 その街は、ポート・フィリップ湾に面してあるはずだ。

 その昔、というか現在でもそうなのかもしれないが、陸(おか)に上がった船員たちが、その街で酒と女を求めた。

 そういう街なら、確実に安いホステルがあるはずだった。

 すくなくとも、今晩は凌げるのだろう。

 そこで、「現金と同じもの」を「本当の現金」にする方法を考え出せばいい。

 たしか教会とか聖人とかと関係するような街の名前だった。

 セントルイスか? いやこれはアメリカの大都市である。

 セント・・・セント・・・・、そうだセントキルダだ。

 現時点で竜太が抱える最大の問題は、大金を持ちながらそれを使用できない、という部分にあった。タクシーにも乗れない。

 大通りを南方向に曲がったら、しかしその問題はあっさりと解決した。

 両替屋がなん件か軒を並べていたのである。

 ついてる。

 最初に出会った両替屋の窓口に、ズボンのポケットに入れてあった1万円札2枚、1000円札3枚、500円と100円の硬貨を数枚突っ込んだ。

 格子の向こう側にいるおばちゃんが、なにか言いながら硬貨を押し戻す。

 どうやら交換は紙幣のみに限るようだ。

 50ドル札が4枚と10ドル札1枚が出てきた。

 2万3000円が、210ドルかよ。

 これでは、1AUDが100JPY以上の交換レートである。

「ちょっとあこぎと違うんか、この因業(いんごう)ばばあ」

 竜太は日本語で言った。

「サンキュー」

 両替商のおばちゃんがにこやかに応える。

 でもいいのである。

 いまの竜太にとってなにより必要なのは、風俗街と呼ばれる街にたどり着くこと、そしてそこの安ホステルに一泊だけでも滞在できる支払い分の現金なのだから。

 カネなら腐るほどもっていた。

 ただそのカネが現金ではなくて、カジノ・チップだっただけである。

 竜太は、通りかかったタクシーに手を挙げた。

「セントキルダ」

「イエス、サー」

 古い型のホールデンの6気筒タクシーが、タイヤを軋ませて発進する。

 クラウン・コンプレックスの建物が遠ざかっていった。

 これで差し迫った危険は、ひとまず回避したはずだ。竜太は安堵の吐息をつく。

⇒続きはこちら 第5章:竜太、ふたたび(3)

PROFILE

森巣博
森巣博
1948年日本生まれ。雑誌編集者を経て、70年代よりロンドンのカジノでゲーム賭博を生業とする。自称「兼業作家」。『無境界の人』『越境者たち』『非国民』『二度と戻らぬ』『賭けるゆえに我あり』など、著書多数。