第5章:竜太、ふたたび(7)

「パスポートはカジノに入場する際に必要だ。ただし日本の運転免許証と携帯電話を預からせてもらうよ」

 申し訳なさそうに、竜太は言った。

「なんで?」

 とみゆき。

「パスポートは、カジノ入場の際の年齢確認のために必要となる」

「でもオーストラリアのカジノは、18歳からOKなんでしょ?」

「日本人は若く見られる。30歳くらいまでは、入り口でセキュリティにパスポートの提示を求められることが多いらしい。それに4万ドル分の
『現金と同じもの』を、俺はみゆきさんに預ける。なんかしらの保険を持ってなけりゃ、俺も不安だ」

「わたしは信用されていないのね」

「そういうわけじゃないのだけれど、わかるだろ?」

 竜太は4枚の1万ドル・チップをみゆきに渡した。

「おもちゃみたい」

 手のひらに載った1万ドル・チップ4枚を眺め、みゆきがつぶやいた。

 強化プラスティックとクレイでできた1万ドル・チップは、まさしく「おもちゃ」そのものなのだが、その一枚ずつが100ドル札100枚、日本円にすれば90万円の価値をもっているのである。

 まったく不思議な「おもちゃ」だった。

「おもちゃ」であるから、どんどんと行ける。

「マホガニー・ルーム」では、1万ドル・チップをてんこ盛りで張る打ち手もいた。

 現金だったら怖くなって、とてもああは張れないだろう。

 まさに、「カジノ・チップを考え出した奴は悪魔である」と竜太は思う。

「よろしく」

 と竜太は言った。

 これも、賭けである。

 4万ドル・360万円なら、俺は運転免許証とケータイを見捨てて逃げるだろう。

 そんなのは現地の警察に盗難届を出して、日本で再申請・再購入をすればいいだけなのだから。

 竜太がみゆきの実家に押し掛けても、知らぬ存ぜぬ、を通せばいい。うるさくなったら、地元警察に連絡すれば一件落着。

 大学卒業を控えた21歳のフツーの女の子の言い分と、新宿歌舞伎町のヤサグレばくち打ちのそれを比べたら、警察がどちらの証言を信じるかは、言わずと知れたことだった。

 でも、みゆきは持ち逃げしないだろう、と竜太は思う。

 思うというより、そう信じるしかなかった。

「換金が終わったら、しょぼいホステルを引き払って、二人で豪遊だ」

 4枚の1万ドル・チップを手のひらに載せ、緊張した表情のみゆきを、竜太は勇気づけた。

「大丈夫よね?」

「大丈夫だ」

「カジノの建物の外で、待っててくれるね」

 不安げなみゆきが問う。

「カジノの建物の外にも、セキュリティの『眼』があるんだ。俺はここで待つ」

 竜太は手を挙げて、タクシーを止めた。みゆきを押し込む。

「タクシー代は?」

 多少の危険はあるかもしれないが、おそろしく率のいいバイトなのだ。そんなの自分で払え、と毒づきたかったが、竜太は50ドル札をみゆきの掌に握らせた。ここでみゆきにへそを曲げられたりでもしたら、万事休すである。

 竜太のポケットに残るは、40数ドルだけ。

 これじゃ、今晩のホステル代も出やしない。

 真夏のメルボルンの熱気にうたれているのに、竜太の背筋を冷たいものが駆け抜けた。

 きっとうまくいく。大丈夫だ、大丈夫だ。

 そう自分に言い聞かせながら、竜太は走り去るタクシーを見送った。

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PROFILE

森巣博
森巣博
1948年日本生まれ。雑誌編集者を経て、70年代よりロンドンのカジノでゲーム賭博を生業とする。自称「兼業作家」。『無境界の人』『越境者たち』『非国民』『二度と戻らぬ』『賭けるゆえに我あり』など、著書多数。