第6章:振り向けば、ジャンケット(11)

 仕事を学ぶのにかなりの時間は要したものの、それからしばらくは、日本関連の大口客のジャンケット商売は、半島側でも良平がほとんど一人で切り回していたはずだった。これは自慢していいことだ、と良平は自負している。

 2004年5月に、サンズ・マカオがオープンすると、5年前とは比較にならないほど治安がよくなったマカオに、日本関連のジャンケット業者たちが続々と戻って来た。

 開業したサンズ・マカオでは、ざら場(=ヒラ場=一般フロア)ですら、一手300万HKD(4500万円)までのベットなら受けてくれた。

 世界中を眺めまわしても、当時そんなハウスは存在していない。

 打ち手たちが勝負卓をなん重にも囲み、1万HKD(15万円)チップの束が、ばんばんとテーブルに叩き付けれた。

 プレミアム・フロアのテーブルでは、オレンジ・チップ(一枚10万HKD=150万円)の山が盛られる。ジャンケット・ルームなら、赤い大判のビスケットが飛び交った。

 まあ、そのおかげでLVS(ラスヴェガス・サンズ)社は、サンズ・マカオ開設に要した総投資の全額を、わずか8か月間ですべて回収してしまったのだが。

 カネの匂いを嗅ぎつけて、安全となったマカオに再び戻って来た日本関連のジャンケット業者には、マカオ政府から与えられるライセンスをもっているものもいたし、もっていないものもいた。

 当時、「部屋持ち」ではない限り、ジャンケット・ライセンスの有無はそれほど問題になる業界じゃなかった。どんな客を抱えているか。それが重要なだけである。

 それから北京政府による「反腐敗政策」の影響が及ぶ2014年まで、マカオの大手ハウスのジャンケット・ルームは、いまにも臨界に達しそうなほどのエネルギーを孕(はら)んでいたものだ。

「唯一の真実はカネ」というジャンケット・ルームでも、そこにはそれなりの「書かれていない(不文律の)ルール」というものが存在した。ところが、マカオ戦争の終結をみてマカオに戻って来た日本関連のジャンケットには、お行儀が悪い業者たちも多かった。おそらくそれまで、小規模なジャンケットを韓国でやってきた連中だったのだろう。

 その当時韓国のカジノで活動するジャンケットには、その出自(多くの場合、指定暴力団の関連企業)の問題もあったのだが、それとは別に種々の事情によって、質の悪い業者が多かった。

 百田と紹介された男がマカオに現れたのは、確か地元資本のSJM(旧STDM)社がラスヴェガス資本の挑戦を受けその命運を懸けたグランド・リスボア(=ニュー・リスボア)がオープンしたころだった。オールド・リスボア(=『葡京酒店』)のフロアで百田を見掛けた記憶は、良平にはない。

 自己紹介では、金貸し業をやっている、と言っていた。

 いわゆるカジノではどこにでもいる、高利貸し「ローン・シャーク」である。

 負け込み「眼に血が入ってしまった」連中に、カネを貸す。

 それも驚くほどの高金利なのに、客が頭を下げて借りに来るのである。

 博奕(ばくち)がもつ魔力だった。(つづく)

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PROFILE

森巣博
森巣博
1948年日本生まれ。雑誌編集者を経て、70年代よりロンドンのカジノでゲーム賭博を生業とする。自称「兼業作家」。『無境界の人』『越境者たち』『非国民』『二度と戻らぬ』『賭けるゆえに我あり』など、著書多数。