ばくち打ち
第6章:振り向けば、ジャンケット(20)
都関良平がオフィスに戻ると、優子はすでに居なかった。
今日は戻れない、とのテキスト・メッセージをリリーの携帯に入れる。
宮前と百田が、本日の勝負での敗北を認め、部屋に引き揚げるまで良平はオフィスで待機していなければなるまい。
持ち込んだ日本円をベット用のノンネゴシアブル・チップに交換する際、良平が書類にサインをしなければならないからである。まったく、フロント・マネーを小出しに入金する連中には手間がかかった。
二人、いや小田山まで含めれば三人だったが、どれぐらいの現金を持ち込んだのか、良平は知らない。
良平の経験では、過去に3億円のキャッシュを持ち込んだ日本人が居た。
3億円のキャッシュといえば、銀行の帯封つきの新札でも30キロある。その男が持ち込んだのは、人の涙と怨念が沁み込んだ古い紙幣だったので、もっともっと重かったはずだ。
日本での決済や銀行振り込みではなくて、わざわざそんな重いものをご苦労にもスーツケースに入れて運んできたのは、やはりそれなりの事情があったからなのだろう。
銀行員だったという履歴、および永い間この稼業をつづけていると、オモテだけではなくて、ウラのそれも渾然一体となった日本経済の仕組みが見えてくるように、良平は感じた。
良平が思うに、カジノというのは、非日常の時空である。
そうでなければ、ある紙屋の御曹司のように、2~3年で106億円を失えまい。
上海東鼎投資グループ会長・邵東明(シャオ・ドンミン)なんてお方は、たったの3日間で10億人民元(約170億円)を負けている。上海市商工連副主席・政協委員・人民代表会議代表などを兼ねた、斯界(しかい)では知らぬ者とてないきわめて著名な「紅頂」だった。
「紅頂」というのは、中国で政治権力と結託した産業人を意味する。
いやいや、「3日間で170億円」程度の話で驚いてはいけない。
つい最近、良平がジャンケットのネットワークから得た情報によれば、中国のスマホ・メーカー金立(ジオ二―)の創業者は、北マリアナ諸島サイパン島にある小さなハウスのバカラ卓で、数日間で100億人民元(約1700億円)を負けたそうだ。もっとも本人は「たった10億人民元しか負けていない」と周囲には言い張っているそうだが。
「たった」という部分が、なんともすごい。
カジノは非日常の時空だから、こういう信じ難いことも起こるのである。
日常の感覚を持ち合わせていれば、とても可能なことではあるまい。
紙屋の御曹司がもし日常に戻って、106億円の個人収入のためにはいったい何百億箱のティッシュを売らなければならないのか、と醒めた頭ですこしでも考えたとしたなら、とても負けられる金額ではなかったはずなのだから。
非日常の時空には、自覚する自覚できないにかかわらず、必ず非日常の思考と論理が存在してしまう。(つづく)