ばくち打ち
第6章第2部:振り向けば、ジャンケット(3)
良平が新天地マカオでの生活に慣れだした2000年末あたりだったか、突然マギーは消えてしまった。
あの頃のマカオでは、よく人が消えている。
おそらく『マカオ戦争』の余波を受けた者たちが、ある者は逃亡し、またある者は、文字通り「消さ」れてしまったのだろう。
なにしろ『マカオ戦争』における戦場の最前線となったのが、カジノのジャンケット・ルームだったのだから。
マギーが再びマカオのジャンケット業界にその優美な姿を現したのは、良平がジャンケットのシステムをほぼ把握し、それなりの人脈をマカオと香港で築き上げた2001年の夏だった。
2001年夏というと、『新義安』の仲介によって「仁義なき戦い」には一応の手打ちがあったとされるが、マカオの街にはまだ硝煙の匂いが色濃く残っている頃だ。
マギーの奨めもあって、良平は独立を目指した。
日本のメガバンクの香港支店外為課長として与えられる年収の10倍くらいなら、個人営業のジャンケットで軽く稼げるのだ。いや、太い客が一人でも居れば、その程度のカネなら3日間で稼げた。
なにしろ従来の日本関連のジャンケットは空席状態だったので、大口客のリストを握っていたのは、マカオでは良平だけだ。
戻ってきたマギーも、以前の会社を辞めていた。
マギーは、良平の独立に全面的に協力してくれた。
立ち上げたときの『三宝商会』の登記は、總經理(=社長)が良平で、副經理はマギーである。
事業は順調に運んだ。
日本にはオモテに出せないカネが、うなるほどあった。
田中角栄のダンボール箱に入れられ駐車場で受け渡しされた5億円の例や、金丸信・自民党副総裁の数十億円相当に達した不正蓄財、その他、某生命保険会社社長がホテルのロビーでひっくり返してしまった3億円の現金(そのホテルは自民党幹事長が部屋をとっていた)、といったケースでもわかるように、政治関係の汚れたカネは、キャッシュが原則だった。
それのみならず、当時の日本には、「GDPの7%前後の経済規模」と海外メディアで報道された反社会的集団がある。
以前優子が言っていたように、「プールいっぱい分の現金」をもつと豪語する名古屋のやくざ組織まであった。
どれもアシをたどられると困ってしまうカネである。
そのままでは、オモテに出せない。
それゆえ、良平の新事業は驚くほど順調に進んだのだった。
マカオが台風に揺れた夜だった。
強風に木々が撓(しな)り、大木が道路を塞いでいた。
ほとんど真横から打つような大粒の雨に当たれば、痛いと感じるほどである。
――嵐の夜は、おんなを抱け。
そう言ったのは誰だったか。
良平は、酔って、マギーを誘った。(つづく)