第6章第2部:振り向けば、ジャンケット(5)

「きみの父親については、マミイから一切聞いていない。マギーは話さなかったし、わたしも聞きたくなかった」

 都関良平は、正直に娘に話した。

「わたしには、マミイの記憶がおぼろにしかないし、生物学上の父親が誰だかわからない。でもいいの。天涯孤独の身じゃないからね。わたしには、ダディとナニィが居る」

 良平が思わず涙をこぼしそうになった、リリーのひと言である。

「きみが3歳のころだったから、『サンズ・マカオ』がオープンした年だね。マカオで初めてのラスヴェガス・スタイルのメガカジノが誕生した」

 2002年、それまでのスタンレー・ホー率いるSTDM社独占制度を破棄したマカオ政府は、カジノ事業権を競争入札制に改める。

 6件出たコンセッション(=ライセンス。正確には、3件のコンセッションと3件のサブ・ライセンス)のうちの1件の経営権を得たLVS(ラスヴェガス・サンズ社)は、2年間弱の突貫工事で、2004年5月、『サンズ・マカオ』をオープンさせた。

 このカジノの規模は、それまでのマカオのカジノに慣れ親しんだ打ち手たちの度肝(どぎも)を抜く。

 ゲーム・フロアの総面積が2万1000平方米。東京ドームの約半分に匹敵した。

 そのどでかい容(い)れ物に、バカラ・テーブル数百台が、まるで幾何学模様を描くように、規則正しく並んだのである。

「あの時は、本当にすごかった。勝負卓を何重にも打ち手たちが囲むので、ゆったりとしたテーブル配置なのに、通路を人が通れない状態だった」

 開業月の入場者が50万人超。2か月後の2004年7月には、月の入場者が100万人を突破する。

「一般フロアではそんな状態だったのだが、VIPフロアは、もっとすごい。一枚50万HKD(=750万円)のチップが束となって、ばんばんとテーブルに叩きつけられた」

 エリート銀行員だったのになぜか本店からジャンケット業務をやるように命ぜられ、そして独立してからの分も含めると、この稼業をそれまで5年前後経験していた。大きな金額が懸かった勝負卓は見慣れているつもりだった良平でも、2004年のあの光景には腰を抜かした。

 一手の勝負に5億円を超すチップの山が、バカラ卓に積まれた。

 ほんの数分もかからない勝負なのに。

 マックス・ベット(一手に賭けられる最大の賭金量)は300万HKD(4500万円)でも、設定はディファレンシャル(甲乙両サイドの賭金量の差)だから、相手さえ居れば、そして双方の意地の張り合いとなれば、テーブルに載る賭金総額は、フツーの人なら泡を吹いて気絶してしまいそうなくらい膨大なものとなった。

 バカラ卓におけるハウスのカスリ(=テラ銭)は、バンカー側勝利の際に勝ち金から差っ引く5%。(プレイヤー側の勝利では、同額イーヴンの戻し)

 もうこうなってくると、カジノ事業者は、高額紙幣の輪転機数十台を1日24時間ぶっ通しのフル回転で回しているのと同様だ。

 LVS社は、開業8か月で、第一期分投下資本総額の250億円をすべて回収してしまった。あとはやるだけ利益が蓄積していく。

 月100万人の入場者があるヒラ場だけではなくて、プレミアム・フロア、ジャンケット・ルームを合わせたVIPフロアも、高層ビルでの火事場のような騒ぎとなった。(つづく)

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PROFILE

森巣博
森巣博
1948年日本生まれ。雑誌編集者を経て、70年代よりロンドンのカジノでゲーム賭博を生業とする。自称「兼業作家」。『無境界の人』『越境者たち』『非国民』『二度と戻らぬ』『賭けるゆえに我あり』など、著書多数。