ばくち打ち
番外編6 闘った奴らの肖像:第1章 第1部 待てよ潤太郎(3)
中学生のわたしは、芋洗坂に住んで不良をやりながらも、暗くなると六本木通りを防衛庁側に渡ることは、めったになかった。怖かったからである(笑)。
あの一帯の規制が緩かったのか、それとも単に法規を無視していただけなのか不明なれど、おもて通りを二本か三本入った閑静なお屋敷街に、なぜか赤や青のネオンが灯(とも)るクラブやレストランが点在した。
そういった店から、若い女性の嬌声が響く。
路上で酔っ払い同士が殴り合っていた。
陸上自衛隊の士官服を着た男が、立小便している。
1メートル65センチくらいしかない地元のやくざが、2メートルはある米兵の大男に、氷を切るのこぎりで斬り掛かっていくのを見たこともあった。
「氷を切るのこぎり」なんてものには、読者への説明が必要かもしれない。
当時は巨大な氷塊をリアカーに載せ、これを専用のこぎりで切って飲食店に配達していた。そして氷の仕切りは、ほとんどの場合、地元やくざのシノギである。
だから1メートル65センチくらいしかない地元のやくざが、たまたま手元にあった「氷を切るのこぎり」を武器として、大男の米兵に向かっていったのだ。
このときは、地元のやくざの一撃が、見事に米兵の頸部に決まった。
おそらく頸動脈が切れたのだろうが、米兵の首から噴水のように血が噴き上げた。
2メートルの大男の首から、さらに50センチか60センチほど血が噴き昇ったものだ。
この世のものとは思えぬ恐ろしき光景である。
そういう光景、あるいは似たようなものを、表通りを二本か三本入っただけの閑静な住宅街で月に二度三度と見せられると、中学生だったわたしはブルってしまい、六本木通りを防衛庁側に夜間渡るのを自粛した。
おまけに防衛庁側には、『六本木族』などと呼ばれて嬉しがっている連中も多くたむろしていた。
彼らと出くわすと、地元の不良中高生たちは「駆逐」か「制圧」されてしまう。
基本的に、地元の不良少年たちは暴力沙汰を避けていた。可能な限り、軟派道を歩んでいた、と思う。
喧嘩なんて、現在の言葉で言えば「ダサい」と感じていたからだった。
喧嘩(ゴロ)のことを、
――キンシチョー、
と呼んでいた一時期もあった。
――錦糸町あたりの不良たちがやること、
といった意味である。
どういうわけか当時の港区の不良中高生たちは、根拠もなく総武線沿線の不良たちを貶(おとし)めていたようだ。別件だが、「コイワ」「シンコイワ」などという呼び方もあった。
ただし地元の不良にも、血を見るのが好きだった奴もまれにいた。
わたしが中学2年生から3年生にかけて、たまに行動を共にした歳上の少年である。
名を潤太郎とする。名家の出だ。姓は、畏(おそ)れ多くて、書けない(笑)。
社会がそれを求めているからかもしれないが、名門・高家の末裔(まつえい)とはいつの時代にも、それなりの生活基準を保てるよう保障されている場合が多かろう。
潤太郎の父親は、敗戦後すぐに、昔からの財産と伝手(つて)を頼って、事業に乗り出した。
戦後の混乱期から朝鮮戦争にかけて、潤太郎の父親は瞬(またた)く間に事業を成功させた。そしてそれをまた、あっという間に著名な政治家絡みでだまし取られたそうだ。
潤太郎一家は、膨大な借金を抱えた。(つづく)