番外編6 闘った奴らの肖像:第1章 第1部 待てよ潤太郎(5)

 当時の不良少年の間では、 

――西のナラショー、東のクリハマ。

 と恐れられていた。

「ナラショー」というのは、奈良少年刑務所のことである。

 久里浜にあるのも少年院とはいいながら、第四種(少年法ではなくて、刑法で懲役刑を受けた少年たちの執行施設)を併設していて、まだ若いのに背中に高価な絵を背負ってる連中がうじゃうじゃいるので有名なところだった。

 潤ちゃんは、それからの1年2か月を、第二種の方の(旧法の「特別少年院」)久里浜で過ごした。

 わたしが中学から高校に進学する春休みに、潤ちゃんは第二種久里浜少年院を出院した。

 出てきたとき潤ちゃんはまだ17歳だったけれど、すでに人生を投げてしまったという雰囲気を濃厚に漂わせる少年となっていた。

 その姓で、出自あるいは素性がバレてしまい、少年院ではずいぶんといじめられたそうだ。

「院生相手なら、例の『待てよ、待ってろ。ゴメンナサイ』戦法で、ヤッパ(=短刀、ナイフ)の代わりに柔道技よ。足払い掛けてから絞め落とせばいいんだけれど、教官相手だともうどうにもならん。ケツワッパ(=うしろ手錠)で懲罰房に連れていかれると、頭から麻袋かぶせやがって、数人がかりで殴る蹴るだからな」

 光を失った眼で、潤ちゃんがそう言った。

 出院した潤ちゃんは、詰まらぬことで街の「ホンマモン」の不良たちにフシ(=言い掛かり)をつけると、「ダサい」はずだった「ステゴロ(=素手でおこなう喧嘩)」を好んで挑むようになっていた。

 次に人を刺せば、間違いなく刑法犯として扱われるので、素手でのゴロだったのだろう。

 もともと筋肉質だったのに、少年院での「謹慎体操」のおかげで、そのころの潤ちゃんの肉体は、全身これ凶器といったオモムキを呈していた。

 懲罰として、腕立て伏せなら500回、スクワットなら2000回とさせられたそうだ。

 でも、その全身これ凶器という躰に生傷が絶えなかった。クラブのバウンサーだろうと、「本職」のやくざだろうと、潤ちゃんは相手を選ばなかった。

 いや、ゴロが巻けるなら、相手は誰でもよかったのかもしれない。

 こうなると、地元の「本職」たちも、潤ちゃんを「厄(やく)ネタ」として避けるようになる。

 もう潤ちゃんのやりたい放題だった。

 ついでだが、当時の六本木・赤坂の裏社会を仕切っていたのは、港会と呼ばれるやくざたちである。港会は、のちに住吉会と改称した。

 先に地元でツルんで、と書いたのだが、当時のわたしたちのグループに組織性はなかった。

 リーダーもいないし、先輩後輩の関係もない。いや、グループの名前すらなかった。入るのも離れるのも、まったくの自由。緩いゆるい、横の広がりだけは大きな集団である。

 どこどこに行けば、誰だれがいる。

 それで一緒に遊ぶ。

 そういう関係であり、ツキアイだった。(つづく)

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PROFILE

森巣博
森巣博
1948年日本生まれ。雑誌編集者を経て、70年代よりロンドンのカジノでゲーム賭博を生業とする。自称「兼業作家」。『無境界の人』『越境者たち』『非国民』『二度と戻らぬ』『賭けるゆえに我あり』など、著書多数。