ばくち打ち
番外編6 闘った奴らの肖像:第1章 第1部 待てよ潤太郎(6)
その後半世紀も経ると、関東連合のような半グレ集団が六本木の街を闊歩するようになったのだが、あの厳しい先輩後輩の関係は、当時の港区の不良少年たちには、まるで理解不能である。というか、とてもダサく感じる。
年齢も不良歴も関係なし。
いつでもどこでも、いやになったら、すぐにツキアイをやめる。
それでよかった。
高校1年の夏くらいからだったが、六本木に住みながらわたしは主に渋谷を中心として活動するようになった。
「活動」という言葉は、おかしいかもしれない。
渋谷宇田川町の麻雀荘で多くの時間をつぶすようになった。
六本木や麻布十番にも麻雀屋はあったのだが、昼間から場が立つことはすくない。それで渋谷まで出張ったのだった。
もちろん、高校なんかに通わない。
昼過ぎに雀荘に顔を出すと、夜の11時ころまで、主に渋谷周辺の商店主のおっさんたちを相手にして、牌を引いた。
したがって、時間的に六本木の地元不良少年たちと行動を共にすることもなくなった。
夜遅く「ちんちん電車(=都電)」を下り芋洗坂(いもあらいざか)を歩いていると、昔の仲間とすれ違うくらいだ。
――どうしてる?
――まあ、ぼちぼち。
そんな会話が交わされて、左右に分かれた。
高校2年生になると、わたしは新宿内藤町にある本格的な賭場(「どば」と読む)にも出入りするようになった。
宇田川町の雀荘での知り合いというかカモである商店主のおっさんに、非合法の賭場に連れていかれたのである。
「バッタまき(別名・アトサキ)」の「盆」だった。
箱根山を西に越えると、「盆」は「ホン引き=手本引き」を意味する場合が多いのだが、当時の関東では「盆」と言えば、どこでも「バッタまき」である。
赤黒2巻の花札を混ぜ合わせ、札撒きがアトとサキに3枚ずつ配る。
――アトサキ張ったんねえ。
の声が中盆から発せられると、白いさらしが張られた盆上に側師(がわし=打ち手)たちが現金を載せていく。
――どっちもどっちも。どっちもどっちも。さあ、どうぞ。さあ、張ったんねえ。
「バッタまき」は「擦り合わせ(あるいは、炊き合わせ、と呼ぶ)」の賭博なので、片側にコマが集中すると、
――サキ、30両。さあ、サキないか?
なんて中盆が呼び込んだ。
あの呼吸とリズムはとても独特で、高校生のわたしには眩暈(めまい)を覚えるほど鮮烈だった。
大きな賭場だと「バンコ」と呼ばれる木製のベッティング・チップが使われた。
しかしわたしが通った新宿内藤町の盆は、1000円紙幣を10枚ごとに独特の折り方でまとめた、キャッシュでのベットだった。ついでだが、1万円札は「超高額紙幣」として発行されてからまだ4~5年しか経っておらず、流通は圧倒的に1000円札だったのである。
さらに蛇足となるかもしれないが、この「擦り合わせ」ができなかったり、正しくテラを切れなかったりするのが、盆に暗い「ボンクラ」だ。
麻雀というゲームは、技術的な要素が多分にからみ、「偶然性によって財物の所有権が変わる」賭事博戯(とじばくぎ)の種目と仮定するのなら、きわめて奥が深い。
しかし、刺激という面では、大量の現ナマがさらしの張られた盆上で飛び交うアトサキの方が、圧倒的に強かった。(つづく)