番外編6 闘った奴らの肖像:第1章 第1部 待てよ潤太郎(7)

 この新宿内藤町の賭場(どば)を仕切る親方は、昔かたぎとでも呼べばいいのか、博徒(ばくと)としてのスジを通そうとする人だった。

 若い衆には、博奕(ばくち)を打つことを厳禁した。

 博徒とは、「ダンベイ(=旦那衆)」たちに賭博の場を用意して、盆のテラでシノギをする者たちのことだそうだ。

 博徒同士の付き合いがあるから、幹部連中が他所(よそ)主催の花会に顔を出すのは仕方ないのだが、下っ端が博奕など打ってはいけない。

 ――あのヤロー、博奕打ちのくせしやがって、博奕なんか打ちやがる。

 若い衆が「向こう打ち(=他の賭場で博奕を打つこと)」に行ったとわかると、親方は頭から湯気を立てて怒っていた。

 それが当時の関東の由緒正しい博徒集団のスジだった。

 まだ高校2年生の若造であったわたしは、親方からも出方(でかた=若衆)たちからもずいぶん可愛がられた、と記憶している。

 親方からは一家の構成員になるよう誘われたが、わたしは断った。

 博徒なんかになったなら、大好きな博奕が打てなくなってしまう(笑)。

 誘いを断り気まずくなったことも一因だったのだろうが、わたしは新宿内藤町の賭場には混む週末くらいにしか顔を出さなくなった。

 平日は、渋谷宇田川町か新宿区役所通りの雀荘で資金を調達し、夜遅くなると四谷や麹町のアトサキの盆に通った。

 ただし四谷のそれも麹町のそれも、いわゆる「常盆」ではなくて、「1の日」とか「5の日」に場が立つ盆だった。

 そのせいもあり、飯田橋や外神田や上野の非合法賭場まで遠征することもあった。上野の賭場では、当時の読売巨人軍のスター選手たちをよく見掛けている。近くに後楽園球場があった関係だからか。 

 16歳も終わるころ、わたしは六本木を離れ、単身で新宿に引っ越した。

 地方の勤務先から東京に戻された親と、六本木で同居する気はまったくなかった。また六本木・麻布といったお屋敷街のそれとはまったく異なる、新宿のなんともいえない淫靡(いんび)さ猥雑(わいざつ)さ下品さが、すっかりと気に入ってしまったからである。

 コマ劇場脇の小さな池で、制服姿の某高校の生徒が、おそらく上級生に強要されたのだろうが、

 ――ぽっぽっぽ、鳩ぽっぽ、豆が欲しいか、そらやるぞ、

 なんて、噴水に濡れながら腕を上下にばたばたさせて、大声で歌っていた。

 制服に特徴があって、あの不良高校の生徒だ、とすぐにわかってしまうのである。

 ついでだがこの不良高校は、日本で唯一「やくざ界で学閥をもつ」ことでも有名だった。

 当時の新宿歌舞伎町では、そんな「ほっぽっぽ、鳩ぽっぽ」の光景を見ても、誰も不思議だと思って足を停めない。

 まあ、勝手におやんなさい、といった風情(ふぜい)だった。

 あるときなど、当時はまだ認可されていた深夜営業の喫茶店・Rに、赤く染まった腹を手で押さえながらおっさんが入ってきた。もちろん下半身は血まみれである。

 ウエイターにサラシで腹を巻いてもらったおっさんは、下半身血まみれのまま奥で出刃包丁を借りると、血の跡を残しつつ勢いよく店を飛び出していった。(つづく)

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PROFILE

森巣博
森巣博
1948年日本生まれ。雑誌編集者を経て、70年代よりロンドンのカジノでゲーム賭博を生業とする。自称「兼業作家」。『無境界の人』『越境者たち』『非国民』『二度と戻らぬ』『賭けるゆえに我あり』など、著書多数。