ばくち打ち
番外編6 闘った奴らの肖像:第1章 第1部 待てよ潤太郎(8)
またあるときには、スーツに白いワイシャツ・ネクタイ姿の青年が、さくら通りの真ん中で大の字に寝転がり、
――さあ、殺せ。いま、殺せ。
と気っぷのいい啖呵(たんか)を切っていた。
眺めてみても、啖呵を切る相手が見当たらない。
そうこうするうちに、その青年は配達のオートバイに轢(ひ)かれてしまった。
顔は潰れたが、青年が死んだかどうかは、不明。
笑っちゃいけないけれど、笑っちゃう。
陽も落ちると、近くにある著名女子高の制服を着た可愛らしい少女が、
「ねえ、あそこ見たい? 300円でいいよ」
と懐中電灯を手渡してくれた。
エンコ―なんてものが流行る20年以上も前のことである。
現在では「ゼニがらみ」だけのつまらない街に成り下がったが、1960年代後半の新宿歌舞伎町は、「イケイケどんどん」なのになぜか『平家物語』の諦観を併せ持ち、毎日まいにちがエキサイティングでスリリングだった。
あんな街、ないでええ~っ。
短い間に新宿ではいろいろと転居した。そして19歳で花園町に住みついた。
新宿歌舞伎町はたとえようもなく、エキサイティングでスリリングだったのだが、しかし花園町も負けずに、エキサイティングでスリリングだった。
その後2年ほどして日本を離れたので、花園町の2軒目のアパートが、わたしの新宿遍歴のアガリとなっている。
話を戻す。
わたしの生活および活動の場が主に渋谷と新宿に移行すれば、当たり前の話だが、六本木の不良少年たちとの関係は疎遠となっていく。
――とかくメダカは群れたがる。
そもそもわたしはガキ同士で群れるのが苦手であり、新宿に転居してからしばらく、わたしは六本木を訪れることもなかった。
わたしが潤ちゃんと再会したのは、なんとそれから30年近くも経たオーストラリアである。
オーストラリアのメルボルンに、南半球最大の『クラウン・カジノ』がオープンしたのは、1994年だった。
そこの勝負卓で、潤ちゃんとの驚きの再会をした件を記録する前に、ざっとそれまでのわたしの賭博履歴を記しておきたい。その方が以降の展開を、読者も理解しやすかろう、と考えるからである。
* * * *
わたしは1971年初秋に日本を離れ、アメリカに渡った。
手にしていたのは330万円ほどの現金だった。
この頃、1USDは300JPYだったので、換算すれば1万1000USDとなる。いまとなって想い返せば、たいした金額ではない。
ところが当時は、大卒の初任給が大手企業でも月に2万5000円から3万円の時代であり、330万円といえばその月給の100か月分以上に相当した。飛んでもない大金だったのである。
海外旅行じたいが、日本ではとても珍しい頃だった。
数日のハワイ旅行でもヴィザが必要となる。
査証を得るために、わたしは在東京のアメリカ領事からインタヴューを受けている。あのときは英語でのインタヴューだったので、まいった。(つづく)