番外編6 闘った奴らの肖像:第1章 第1部 待てよ潤太郎(10)

「麻雀で負けたら(盆には行かず)蟄居(ちっきょ)」とは、生活費を賭博で稼ぐ自分に対し、自らが課した破戒厳禁のルールだった。

 当たり前の話だが、アトサキの盆では勝つこともあるし、負けることもある。

 正確な記録は残していない。しかし総計してみれば、負けた時の方が圧倒的に多かったはずだ。

 アトサキの盆で負けても、そもそもそれは渋谷宇田川町か新宿区役所通りの雀荘で拾ってきた、他人のゼニである。プレッシャーはすくなかった。

 そしてわたしは、勝ったらそのカネを、前述した理由によって次回の戦費としない。

 毎回まいかい、賭場(どば)を洗って(=終わって)下駄を履けば、そこで収支を閉じた。

 一度限りの独立試行である。

 勝ったカネは、ユービン貯金に回した。

 そこいらへんにごろごろいる「勝負師」たちと、生き残ったわたしとの違いがもしあったとするなら、それは郵便局である(笑)。

 通帳に書き込まれる金額を見るのが楽しみだった。

 つくづく可愛げのないガキである。

 一回数千円から2万円程度の預金でも、チリも積もればなんとやら、いつしか口座残高が100万円を超した。

 当時のわたしの賭博ライフは、麻雀・バッタまきをメインとしながらも、競輪・競馬という公営競走にもすこしだけだが手を出していた。

 ただし公営賭博では、勝てない。

 当たり前だった。25%超の控除を差っ引く賭博にどっぷりと浸かり込んで、それに勝てると考える方がおかしいのだ。

 それゆえわたしは、公営賭博の本場(ほんじょう)には、捨てるつもりの1万円しか持ち込まなかった。

 戦法は「だるま返し」あるいは「だるま転がし」と呼ばれるもの。これひとスジである。

 1万円の一本勝負。

 取れば、その勝ち分も次のレースで一本勝負。

 これを3レース繰り返す。

 なぜだか知らないけれど、当時この戦法を「メルボルン」と呼んでいる人たちも居た。メルボルン・オリンピックでの三段跳び競技と関係でもしていたのだろうか。

 白いさらしが張られた盆では自らに固く禁じた夢を、わたしは競輪・競馬の本場で見た。

 いやむしろ、公営賭博で夢を見ることを許していたおかげで、バッタまきの場では厳しく自分を律せられたのかもしれない。いまとなって想い返してみても、そこいらへんは、ようわからん。

 すなわち賭博とはいいながら、競輪・競馬は当時のわたしにとっての息抜きだった。1万円が入場料の娯楽である。

 ハナから、勝つなんて思っていない。1か月に二回か三回、本場への入場料1万円分の夢を見て楽しんでいるだけなのだった。

 だいたい、最初のレースで、夢は弾けた。そうしたら、残りのレースは観ずに、家路につく。

 最寄りの駅に向かう帰路のバスは、いつも空いていた(笑)。

 ところが1971年のある蒸し暑い日に、奇蹟が起こる。

 夢が、夢じゃなくなってしまった。

 後楽園競輪場の二日目準決勝戦3レース。

 当時の競輪は、一日10レース・三日制である。

 第8レース的中。10倍ちょっとの配当だった。(つづく)

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PROFILE

森巣博
森巣博
1948年日本生まれ。雑誌編集者を経て、70年代よりロンドンのカジノでゲーム賭博を生業とする。自称「兼業作家」。『無境界の人』『越境者たち』『非国民』『二度と戻らぬ』『賭けるゆえに我あり』など、著書多数。