ばくち打ち
番外編6 闘った奴らの肖像:第1章 第1部 待てよ潤太郎(13)
ラスヴェガスのストリップは敷居が高すぎた。ゆえに下町をぶらつき、オフ・ストリップの小博奕屋で、主にルーレットとBJ(ブラックジャック)を攻めた。
慣れないことはやっちゃいけない。
1ドル・2ドルのテーブル・ミニマムでも、どんどんと持ち金が削られていった。
1週間で、2500ドルほど負ける。
股間に尻尾を巻き込み、サンフランシスコに舞い戻ることにした。
敗けを受け入れる。
敗北を受容できるか、できないか。
賭博では、この点がきわめて重要だ。バカには、これができない。
傷がまだ浅いうちに、負けを認めて撤退するのである。
ひと息いれて、サンフランシスコから南下し、メキシコとの国境およびメキシコ湾沿いを東にニューオリンズまでヒッチハイクした。
髪も髭も伸び放題のむさい東洋人を、よく多くのドライヴァーたちが拾ってくれたものだ、と他人事のように感心する。
と同時に、いまから考えると、とても無謀な行為だった。
バックパック(当時は、リュックサックと呼ばれていた)には、1万USD前後の現金が入っていたのである。
マディグラの祭りで、西海岸から来ていた18歳の少女と知り合った。
金色と亜麻色の混じった髪の、ドイツ系の名をもつ可愛らしい少女だった。
二人で3週間ほど中北部の都市を目指し旅した。
セックス・ドラッグス・ロックンロールの時代である。
ここいらへんも書きたいことがあるのだが、本筋から外れてしまうので省略する。
少女は、そろそろ復学する、と言った。
翌年の夏休みにはヨーロッパのどこかで再会しよう、と約束して、吹雪のシカゴで西と東に別れた。
1972年の3月だったが、わたしはニューヨークからアムステルダムに向かった。
ロンドンを起点にして、それから1年半ほどを主に南部ヨーロッパや北アフリカ各地で暮らした。
セックス・ドラッグス・ロックンロールの日々は続く。
あんな楽しいことはないのだから(笑)。
1973年の秋に、アジアに渡った。
いろいろと面白い博奕(ばくち)を経験した。
カブトムシの勝負とか、カエルの3メートル競走とか。
チャールズ・ラムが言ったように、「人間とは賭けをする動物」である、と確信できたアジアの旅だった。
バンコックでは、非合法のカジノにパトカーで送迎されたこともあったっけ(笑)。
なんでも警察の方面本部長が代々引き継ぎ経営する地下カジノだそうだ。
手持ちのカネも底をつき、いったん東京に戻った。
日本における諸事雑事を整理して、また国外に出るつもりだった。
その計画は予定通り実行した。
1975年5月、それなりのカネを手にして、わたしは羽田空港からロンドンに向けて、旅立っている。
ただし予定外だったのは、このときわたしには妻がいたことだった。彼女とは、なんと内幸町の帝国ホテルで、知り合った(笑)。
ここいらへんも、いろいろと書きたいことはあるのだが、やはり本筋から外れてしまうので、省略しよう。詳細が知りたければ、『無境界家族(ファミリー)』(集英社文庫)のご高覧を願う。(つづく)