世界史の中の日本 本当は何がすごいのか【第6回:日本とイギリス】

日本橋三丁目交差点にあるヤン・ヨーステン記念碑(縮小)

日本橋三丁目交差点にあるヤン・ヨーステン記念碑

日本に漂着し、家康に取り立てられたイギリス人ウィリアム・アダムス

 1600(慶長5)年、オランダ船リーフデ号が豊後(大分県)に漂着しました。20数名といわれる乗組員の中には、オランダ人航海士のヤン・ヨーステンと、同じくイギリス人航海士のウィリアム・アダムスがいました。彼は日本に初めて来たイギリス人といわれています。  長崎奉行は船内に積まれていた大砲や火縄銃、弾薬といった武器を没収し、船員を徳川家康のもとに送って判断を仰ぎました。その際、すでに日本にいたイエズス会の宣教師たちは、彼らを即刻処刑するように要求したことが知られています。  ウィリアム・アダムスは家康に謁見し、気に入られました。その際には、西洋の様子を知らせ、イエズス会の宣教師たちが危険であることを説いたはずです。そのことにより、徳川幕府の外交方針に影響を与え、ポルトガル、スペインを排除することにつながったと思われます。  さらに、幾何学や数学、航海術などの知識を幕府に伝えたといわれます。家康は大型船の建造を指示、1607年には120トンの船舶を完成させました。そしてアダムスを250石取りの旗本に取り立て、三浦按針の名を与えたのです。しかし彼は、1620年、帰国の望みを断たれたまま平戸で亡くなりました。

鎖国政策に影響を与えたウィリアム・アダムスの情報

 日本とイギリスとの関係は、ウィリアム・アダムスによってはじまりましたが、皮肉なことに、幕府はそのために鎖国政策をとりました。そして、日本が貿易相手国として選んだのはオランダで、イギリスではありませんでした。彼のもたらした情報が、幕府に、その後のイギリスの植民地主義を予測させたのかもしれません。それは、正しい判断だったといえるでしょう。  イギリスは海軍力を原動力にして世界の大国にのし上がり、やがて日本にも進出してきて明治維新の重要な要因をつくることにもなります。イギリスの明治維新への関わりとは、こういうことです。

イギリスとの衝突が明治維新をうながした

 1862年、いまの横浜市鶴見区生麦の付近にさしかかった薩摩藩主の父島津久光の行列を馬に乗ったイギリス人が横切り、これに怒った藩士がイギリス人を殺傷するという事件が起こりました。生麦事件です。  その翌年、この復讐のためにイギリス海軍が鹿児島を砲撃しました。薩英戦争です。さらにその翌年、今度は長州藩がイギリス海軍やフランスに砲撃を仕掛けますが、逆に英・仏・米・蘭の四国艦隊に下関の砲台を占拠されてしまいます。下関戦争です。軍事力で威嚇されたこの経験は、薩摩と長州を目覚めさせるに十分でした。薩長が明治維新を推進する中心となった起点はここにあるのです。また、その後の日英関係はここにはじまったということができます。

日本帝国海軍はイギリス海軍をモデルとして誕生した

 1872年、日本帝国海軍が誕生します。その模範としたのはイギリス海軍でした。薩英戦争と下関戦争という二つの経験がイギリス海軍の優秀さを痛感させた結果です。また同年、イギリスを訪問した岩倉使節団はイギリスとの間の不平等条約改正に取り組みます。これは失敗しますが、産業革命を経たイギリスの技術情報という副産物を得て、日本の技術振興の土台になります。  このような日本とイギリスの関わりの中で、本流からはいささか逸れますが、注目しておかなければならないことがあります。岩倉使節団派遣の時期にイギリスのロイター通信社が日本に初の支局を開設したことです。実はこのロイター通信社というのはユダヤ資本なのです。情報という場もまた、ユダヤ人の活躍するところでした。 (出典/田中英道著『[増補]世界史の中の日本 本当は何がすごいのか』育鵬社) 【田中英道(たなか・ひでみち)】 東北大学名誉教授。日本国史学会代表。 著書に『日本の歴史 本当は何がすごいのか』『[増補]日本の文化 本当は何がすごいのか』『日本史5つの法則』『日本の戦争 何が真実なのか』(いずれも育鵬社)ほか多数。
[増補]世界史の中の日本 本当は何がすごいのか

他国の歴史と比べることで見えてきた日本の“いいところ"。

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