日本の美仏を歩く(2)――堂々とした茨城にある延命観音
関西仏にも負けない関東の「雨引観音」
「今年だけ、御開帳だそうですよ、見に行きましょうよ」と友人に誘われて、平成26年、東京から車で約2時間半揺られて、筑波山に連なる山々の端にある雨引山(茨城県)の楽法寺を訪れました。 なるほど、そこのご本尊、通称「雨引観音」は、29年間も人の目に触れなかった秘仏だとお坊さんは言っていました。しかし一度見たことがある、と思ったので調べて見ると、茨城県の天心記念五浦美術館で行われた「岡倉天心と文化財展」で展示されていたことが分かり、「あの時だったか」と思い出したのです。その展覧会でも、この仏像はひときわ目立った存在でした。 関東仏にもかかわらず、関西仏に負けぬ存在感があり、着衣の技巧性も十分で、顔にも気品が漂っています。体もボリューム感があり、関東の文化の高さ、審美感を思い起こさせます。 この『延命観音菩薩』立像(国指定重要文化財)については、多くの研究家が、高い評価を与えています。『茨城彫刻史研究』(2002年・中央公論美術出版)を出された後藤道雄氏は次のように言っています。 「このような簡古な構造に加えて、すべて髪筋を刻まない大き目の髻、切れ長の両眼に太い鼻筋をもつ下顎の張った強い顔立ち、肩の広い量感と抑揚に富んだ体躯、石帯の刻出、両足の間を彫り込んで腿の量感を強調する造形、W字状に翻転して垂れる天衣、裙の折返しの縁や正面の打ち合わせにみられる、うねうねとした翻りや立上り、翻波式をまじえた衣褶の鎬立った表現など、いずれも像の古様を伝えている」 そして、『延命観音菩薩』立像は、その彫りが一見、浅く見られることや、両眼を伏し目ふうに造っていることなどから、平安中後期、いわゆる藤原時代に年代を下げて考える説もありますが、よく見ていくとそのようには考えられず、平安前期、9世紀後半の制作であると思われると述べ、茨城県の木彫仏では最古のものだと言っています。平安時代の古仏
私を誘ってくれた友人も、かつて仏教彫刻史の大家、久野健氏と、『延命観音菩薩』立像を収蔵庫で見たことがあり、やはり平安時代のものだと語っていたそうです。久野氏は、『関東彫刻の研究』(学生社)でも、たしかにそのようなことを述べています。 石帯を結んだ菩薩像は、唐招提寺や大安寺の木彫像に始まり、平安前期まではしばしば見かけますが、その後の像にはほとんどないと言われています。 また、W字状に翻転して表す天衣は、9~10世紀の作例に見られ、東国では山形宝積院の『十一面観音』像や、岩手天台寺の『十一面観音』像などに見られると指摘されているのです。 私が以前教えていた東北大学で、仏教彫刻を研究している長岡龍作氏は、同じように9世紀末の制作と考え、『国華1326号』(2006年4月号)の「楽法寺蔵・観音菩薩立像」という論文で、「条帛や裙折返しの下縁を下からの風にあおられるかのように翻らせる表現は、神護寺『薬師如来』立像の袈裟の下縁のそれを代表的な例として、やはり9世紀の仏像にしばしば見られるものである」と述べています。 さらに、本像の制作年代は、このように古様な表現が見られることに加え、台座への接合を足ほぞとする技法が、貞観15(873)年以前の制作と考えられる広隆寺『千手観音』像(京都府)に見られるように、9世紀後半以降に一般化し出すものであることを勘案すると、9世紀の末頃に置くのが適当かと推察される、と結論づけています。関東だけでなく東北でも、やはり9世紀制作と伝えられている秋田県小沼神社の『聖観音』立像の脚部の衣文と、似ているという指摘もされています。手・腕、身に着けた鹿皮の見事な表現
『延命観音菩薩』立像の仏像の腕は、各臂の前膊部の大半が後補になっているので、当初の印相(両手で表すポーズ)の復元は困難ですが、八臂の『不空羂索観音』像であったと考えられます。左右第三臂の前膊部は当初のもので、この腕に垂れかかっている布状のものが、『不空羂索観音』像が身に着ける鹿皮であると見られるからです。 当初は合掌手の八臂の『不空羂索観音』像として造立され、後年、手・腕が後補・変更され、「延命観音」と称されるようになったと考えられているのです。 『不空羂索観音』像は、奈良時代には山寺の法会の本尊として祀られたのではないかと、長岡龍作氏は言っています。 雨引山は、筑波山より北に連なる山系の最北に位置する一峰です。その雨引山は、浄行僧の山林修行の場であるとともに、法会の場の本尊として、この『不空羂索観音』像が祀られていたと推測しているのです。 寺伝では、楽法寺は、用明天皇2(587)年、梁の国人の法輪独守居士によって開かれたと伝えられています。今では坂東霊場三十三観音の二十四番札所になっています。地元では「安産、子育て」にご利益のある観音として、多く人々の信仰を集めています。 私が珍しく、このように多くの研究家の説を引用しているのは、この関東仏がいかに注目されているかを紹介したかったからです。それだけこの『延命観音菩薩』立像が、関西仏とも深い関係があるということですが、さらに、関東の茨城が、決して東国として孤立しているわけではなく、平安時代においても文化が交流し合っていたことを示しています。 (出典:田中英道・著『日本の美仏50選』育鵬社) 田中英道(たなか・ひでみち) 昭和17(1942)年東京生まれ。東京大学文学部仏文科、美術史学科卒。ストラスブール大学に留学しドクトラ(博士号)取得。文学博士。東北大学名誉教授。フランス、イタリア美術史研究の第一人者として活躍する一方、日本美術の世界的価値に着目し、精力的な研究を展開している。また日本独自の文化・歴史の重要性を提唱し、日本国史学会の代表を務める。著書に『日本の歴史 本当は何がすごいのか』『日本の文化 本当は何がすごいのか』『世界史の中の日本 本当は何がすごいのか』『日本の美仏50選』『日本国史』、最新刊『ユダヤ人埴輪があった!』(いずれも育鵬社)などがある。ハッシュタグ
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