「クリミア半島はソ連からウクライナへのプレゼント」というウソ

<文/グレンコ・アンドリー>

ロシアのクリミア半島侵略を正当化しようとする人々

ソビエト連邦第4代最高指導者のニキータ・フルシチョフ

 前回の記事で、筆者はクリミア半島は国際法上、ウクライナの領土であり、ロシアによるクリミア占領・併合は弁明しようのない領土侵略であることを説明した。だからクリミア半島の問題解決は、ウクライナへの無条件な返還しかないということも説明した。  これ以上クリミア半島帰属については議論することはない。ロシアの侵略を正当化するためによく利用されている、ウクライナへの移譲の経緯、クリミア半島の歴史、クリミア半島の人口構成と世論、といった要素は帰属問題とは何の関係もない。  とはいえ、こういった要素を持ち込もうとする人達がある。そして、これに流され、間違った認識を持っている人がいるのもまた事実だ。  だから、今回はこのような問題についても解説することにする。繰り返しになるのだが、本稿で扱われる情報は、クリミア半島のウクライナ帰属の根拠ではなく、あくまで補足知識である。帰属根拠は前回述べた通りである。

クリミアはソ連のフルシチョフからウクライナへのプレゼントか

 まずは、ソ連時代にクリミア半島がウクライナへ移譲された経緯について。ロシアの侵略を正当化しようとする人達は、「クリミアはウクライナ出身のフルシチョフによってウクライナにプレゼントされた」という表現を使う。これを聞くと筆者は笑ってしまう。いやぁ、こんなに絶妙に、一語一句、嘘しか書いていない一文を作るには、むしろ才能が要る、というのが筆者の印象である。  順番に事実を確認しよう。クリミア半島のロシア・ソビエト連邦社会主義共和国からウクライナ・ソビエト社会主義共和国への移譲が決まったのは、1954年1月25日である。その日ソ連共産党中央委員会幹部会がクリミアの移譲を決定し、1954年2月19日にソビエト連邦最高会議幹部会にそれが議決された。幹部会で議長を務めていたのはゲオルギー・マレンコフである。フルシチョフももちろん、他の幹部会メンバーと同じく移譲に賛成したが、これは彼の単独の判断ではなく、ソ連の幹部の共通認識だった。  フルシチョフは当時、まだ国のトップに立てずにいた。そして、事実上のトップであったマレンコフ閣僚会議議長を引きずり下ろす準備をしていた。クリミア移譲はこのフルシチョフとマレンコフの権力闘争の最中に行われたのだが、両者共にクリミア半島移譲に賛成だった。つまり、この移譲はフルシチョフ単独の判断ではなく、当時のソ連指導層全体の意向であったことが伺える。ちなみに、ウクライナへの移譲に関する議論は1952年の頃から行われていた。

フルシチョフはウクライナ出身ではない

 ところで、そのフルシチョフだが、彼はウクライナ出身ではない。彼はロシア帝国のクルスク県(現在:ロシア連邦クルスク州)に生まれたロシア人である。彼はスターリンに信頼されていたため出世し、1938年から1949年までウクライナ共産党(ソ連共産党ウクライナ支部)の第一書記(トップ)を務めた。長くウクライナにいたため、ウクライナ出身と勘違いされることがあるが、彼はロシア出身である。  また、彼はウクライナにいた頃、ウクライナに対して特別な思いを持っていた訳ではない。フルシチョフはウクライナにおけるスターリンの抑圧を従順に実行していた。独ソ戦争後、彼はウクライナ独立を目指していた民族運動の残虐な弾圧に加担し、慈悲を見せた兆しはなかった。独立運動家を町の広場で公開処刑すべきだと主張していた。ウクライナにいた頃に、確かに彼は多くのウクライナ出身の側近を持つことになったが、この人達は民族的にウクライナ人だったとはいえ、ウクライナに対する何の思い執着もない共産主義者だった。つまり、フルシチョフはウクライナ人でもなければ、ウクライナに対して特別な感情を持っていた訳でもない。

クリミアがウクライナに移譲された本当の理由

 さて、クリミアはプレゼント、贈り物だったという意味不明なことを言う人の話に戻ろう。そもそも領土についてプレゼントという言葉は使えるかどうか、という問題は置いといて、恐らくそういう人達はクリミア移譲はソ連による優遇だったと言いたいのだと思われるが、もちろんそんなことはない。むしろ逆だ。  よくクリミアはロシアとウクライナの長年の友好を記念して移譲されたと言われている。確かにソ連の公式見解はそうであった。しかし、これは後付けの理由で、実際にクリミアの移譲をソ連の指導層が検討していた時、当然このような甘ったるい理由などなかった。  実際の理由は経済産業である。ソ連幹部が決定したクリミア移譲の正式な理由は「経済の統一性、地理的な近さと、密接な産業的な、文化的な繋がりを考慮して」ということだった。  当時のクリミア半島は荒廃していた。1944年にはスターリンの命令によってクリミア先住民であるクリミアタタール人や他の長年クリミアに住んでいた民族は半島から追放された。彼らはクリミアの経済や産業を担っていたので追放後、クリミア経済が崩壊した。  代わりに半島に来たロシア人の入植者は新しい環境に慣れずに、発展に貢献できなかった。新たに入ってきたロシア人は、「なぜこんなところに行かされたのか」と不満を漏らしていたとすら言われている。ソ連幹部は崩壊したクリミア半島の経済再生に悩まされた。そこで、クリミアの再生をウクライナに任せたらどうかという案が出てきて、最終的に採決された。  クリミア半島は地理的にウクライナ本土と隣接しており、インフラの面でもウクライナのインフラ体系の一部である。また産業や経済や物流など、すべての分野においても同様にウクライナの一部である。だから、クリミアを直接モスクワが管理するより、ウクライナに任せた方が、効率がいい。  実際にウクライナ移譲後、クリミア再生が実現された。また、資源の面では、クリミア半島は資源不足で自立できないので、水道水やガス、電気などもすべてがウクライナ本土から調達されている。だからクリミアの移譲は、ウクライナへの優遇ではなく、地理、経済、産業、資源という事情に基づいてなされた極めて自然で合理的な判断である。

クリミア半島は元々ロシアの領土だったのか

 次は、クリミアの歴史を見てみよう。ロシアによる侵略を正当化しようとする人達はよく「クリミア半島は元々ロシアの領土だった」と言っている。それでは、ごく簡単ではあるが、クリミア半島の歴史を振り返ってみよう。  紀元前七世紀から、クリミア半島の南部には古代ギリシャからの入植者が都市国家を造っていた。  紀元前五世紀~紀元後4世紀の約800年間、クリミア半島の東部は、ギリシャ系のボスポロス王国の中心であった。その間、一時期、ローマ帝国の保護国となっていた。同時に北部はスキタイ族の国家に所属していた時期もあった。  四世紀にはゴート族、五世紀にはフン族に支配されていた。六世紀から九世紀まで、クリミアはビザンツ帝国の一部であった。  十世紀になると、ウクライナの先祖に当たる古代ルーシが台頭し、クリミア半島の一部を支配するようになった。それぞれの支配も完全なものではなく、現地の部族らと通り過ぎる遊牧民との混在状態であった。十三世紀のモンゴル襲来によって、クリミア半島の大部分はモンゴル系国家のジョチ・ウルスに支配されるが、南の沿岸部は一部はビサンツ帝国、一部はイタリアのジェノヴァ共和国の植民地になる。  十五世紀ではクリミアタタール人のクリミアハン国が成立する。クリミアタタール人とは、アジアから渡来したモンゴル人やタタール人と、先住民の諸部族が混血してできた民族である。クリミアハン国はクリミア半島を1783年まで300年以上支配した。  そして1783年にクリミア半島がロシア帝国に併合され、支配は1917年まで続いた。  1918年には、当時、一時期独立していたウクライナに数カ月の間支配される。  その後のロシア内戦時代には、白軍に約2年間支配され、白軍が赤軍に敗北した後はソ連に組み込まれた。  そして1954年に、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国から、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国へ移譲された。  ソ連崩壊後は、クリミア半島はそのまま独立したウクライナの領土になった。  このように、クリミアは何回も支配者が変わっている。それでは、クリミアは「元々」どこの領土なのか? クリミア半島は「元々」ロシアの領土ではない。ギリシャ人に800年支配され、クリミアタタール人の国家が340年存在したが、どちらも、ロシアが支配していた約200年より遥かに長い。だから、ロシアがクリミア半島領有の主張を歴史に求めるのは、まったく正当性がない。歴史的に支配者が何度も変わった地域に関しては「元々ウチの領土だ」という主張自体がおかしい。「元々」の時期を自分に都合のいい時代に設定すれば、多くの国が「クリミアは元々うちの領土だ」と言えるからである。

民族自決権はその地域の先住民に及ぶもの

 最後にクリミアの人口構成と世論について考えよう。現在のクリミア半島の人口構成とはおおよそ、ロシア人6割、ウクライナ人3割弱、クリミアタタール人は1割である。これを根拠にロシアやロシアの侵略を正当化する人達は、クリミア住民は民族自決権に基づいてロシア帰属を選んだと主張する。  この論理は本当に詭弁の極みである。そもそも、現在の国際関係においては、国境不可侵の原則は民族自決の原則に勝るという慣習がある。  しかし、それをさておいても、ロシア擁護の理屈は通じない。なぜなら、民族自決権というのは、その地域の先住民に及ぶものなのだ。クリミアの場合は、いくつかの先住民の民族があるが、その中で最も数が多いのはクリミアタタール人である。だから民族自決権を使えるとすれば、彼らのみであり、決してロシア人ではない。ロシア人には既にロシア連邦という国があるので、彼らは既に昔から民族自決権を実行している。民族自決権に基づいて、自治や独立を要求できるのは、その地域以外に祖国がない民族のみである。  もちろん、クリミアに住んでいるロシア人はロシアに住む権利がある。その権利を実行する方法は極めて簡単。ロシアへ移住すればいいだけの話なのだ。そうしたいロシア人を止めるつもりはない。ご自由にどうぞ。

計画的な移住による人口構成の変化

 さらに、そもそも現在のクリミア半島の人口構成は自然なものではなく、人工的に作られたのである。1783年までにクリミア半島にロシア人は殆どいなかった。戦争でクリミアを取ったロシア帝国は計画的に半島にロシア人を移住させていた。帝国政府はクリミア本当のロシア化を狙い、クリミアタタール人を差別していた。そのため、ロシアの統治に耐えられず、多くのクリミアタタール人はクリミアから移民した。ロシア帝国の130年の間、50万人以上のクリミアタタール人は半島を出た。総人口の100万人もない民族にとっては、大きすぎる数字である。当然、帝国政府はクリミアタタール人の流出を喜び、その代わりにロシア人を住まわせた。  しかし、とどめを刺したのはスターリンであった。彼は1944年にクリミアタタール人の追放を命じて、ソ連の治安部隊はクリミアに住んでいた全てのクリミアタタール人(当時、約25万人)を強制的に貨物列車に入れて中央アジアに移動させた。移動中や到着直後の過酷な環境で、約5万人つまり5人に一人が死亡した。ちなみに、これもソ連の公式な統計で、クリミアタタール人の活動家の主張によれば、民族の46%つまり10万人以上が死んでいるということだ。  その結果、クリミアタタール人はクリミアからいなくなり、その代わりにまた新たにロシア人が入ってきた。クリミアタタール人に故郷へ戻ることが許されたのは1989年である。それまでに彼らはソ連当局から、「ファシストの協力者」とレッテル張りされ、50年間も中央アジアで過酷な環境で生きざるを得なかった。だからクリミアタタール人とはロシアに非常に虐げられていた民族である。  以上の経緯から、現在のクリミア半島の人口構成は自然なものではなく、計画的な移住、民族浄化、弾圧、虐殺の結果である。この経緯から見ると、クリミア半島に住んでいるロシア人には個々人の罪はないが、少なくとも彼らにはクリミア半島の運命を決める権利はどの観点から見てもない。

先住民のクリミアタタール人の意向は?

 それでは、そのクリミアタタール人だが、彼らはクリミア帰属をどう考えているのか。それも明確である。クリミアタタール人のほとんどがクリミア半島はウクライナの不可分の一部であり、クリミアのウクライナ帰属以外の解釈はあり得ないと考えているのだ。  ちなみに、クリミアタタール人の投票行動からも彼らの姿勢は明らかである。ウクライナでも保守右派、中道派、左派、親露派の政党はあるが、クリミアタタール人は国政選挙のたびに決まってウクライナの右派に投票している。だからクリミアタタール人は立派なウクライナの愛国者である。  冒頭に断ったように、本稿で述べられた情報だけではクリミア半島がウクライナに帰属している根拠は十分ではない。クリミアのウクライナ帰属の揺るがない根拠については前回の記事で述べたとおりであるので参照いただきたい。しかし、本稿の情報では、ロシアの主張はいかにでたらめなのか、十分にご理解いただけたと思われる。ロシアのプロパガンダが一流であるため、それが世界中広まり、信じる人は残念ながら多いが、真実はロシアが何の大義もない野蛮な侵略者であるということだ。  最後に、「クリミア半島は元々ウクライナの領土である」と言っておこう。なぜそう言えるのか。先述したように、ウクライナの先祖である古代ルーシはクリミア半島の一部を領有したことがある。ロシア支配の800年も前のことだ。また、1918年に数か月だけだが、当時束の間に独立していたウクライナはクリミアを支配したことがある。さらに、地理的にもクリミアは自然にウクライナ本土と繋がっている。そして、クリミアタタール人は国籍的にはウクライナ人であり、ウクライナへ忠誠している。クリミアタタール人はウクライナ人であるとすれば、彼らがロシア人よりずっと前に住んでいたクリミア半島も、元々ウクライナの領土であると言えなくもない。  上記の主張については「クリミアのウクライナ帰属は揺るがない現実にしても、さすがにこの根拠だけで、元々ウクライナの領土、というのは流石に強引な論理なのではないか」という反論は成り立つか。成り立つかもしれない。しかし、この強引な理屈でも、「クリミアは元々ロシアだ」というでたらめな主張よりはまだ説得力はあると思う。 【グレンコ・アンドリー】 国際政治学者。1987年、ウクライナ・キエフ生まれ。2010年から11年まで早稲田大学で語学留学。同年、日本語能力検定試験1級合格。12年、キエフ国立大学日本語専攻卒業。13年、京都大学へ留学。19年3月、京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程指導認定退学。アパ日本再興財団主催第9回「真の近現代史観」懸賞論文学生部門優秀賞(2016年)。ウクライナ情勢、世界情勢について講演・執筆活動を行なっている。著書に『ウクライナ人だから気づいた日本の危機――ロシアと共産主義者が企む侵略のシナリオ』『日本を取り巻く無法国家のあしらい方――ウクライナ人が説く国際政治の仁義なき戦い』(以上育鵬社)など。
1987年ウクライナ・キエフ生まれ。2010~11年、早稲田大学へ語学留学で初来日。2013年より京都大学へ留学、修士課程修了。現在、京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程で本居宣長について研究中。京都在住。2016年、アパ日本再興財団主催第9回「真の近現代史観」懸賞論文学生部門で「ウクライナ情勢から日本が学ぶべきこと――真の平和を築くために何が重要なのか」で優秀賞受賞。月刊情報誌 『明日への選択 平成30年10月号』(日本政策研究センター)に「日本人に考えてほしいウクライナの悲劇」が掲載。
日本を取り巻く無法国家のあしらい方――ウクライナ人が説く国際政治の仁義なき戦い

ストーカー=韓国 チンピラ=北朝鮮 マフィア=ロシア ヤクザ=中国 無法国家に囲まれた日本に、ウクライナ人が仁義なき戦い方を説く!

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