日本の歴史という美しい虹を見るために
日本の歴史という美しい虹を見るために
渡部昇一著『[増補]決定版・日本史』(扶桑社新書、発行:育鵬社、発売:扶桑社)が刊行された。本書は、日本史に関わる数多くの著作のあった渡部氏に、通史として1冊の本にまとめられたものがなかったため、「1冊で読む日本通史の決定版」をコンセプトに編集された。まさに、渡部日本史の決定版である。 また本書は、育鵬社から刊行する中学校社会科歴史教科書『新しい日本の歴史』とは対をなす、「大人のための歴史教科書」として刊行された。 本書がどのような趣旨で執筆されているのかということについて、著者の言葉を紹介したい。 現代において浩瀚な日本史は珍しくない。しかしそれに参加する執筆者は多数である。その個人の論文の価値は高くても必然的に「史観」は欠如している。ここで私は、尊敬するオーウェン・バーフィールドの指摘する「国史」と「史実」の研究の違いを思い出すのである。その主旨の大要は次のようなものである。 「雨上がりの空には無数の細かな水滴がある。そこで美しい虹を見るためには、適当な方向と距離が必要である。歴史上の事実も毎日起こる無数の事実だ。その事件の一つ一つを調べても、その国の〝国史〟といえる国民の共通表象は生じない。それは水滴をいくら調べても虹にならないのと同じことだ」 個々の歴史的事実についての丹念な研究は尊い。しかしそれだけでは国史という虹は生じない。無数の歴史的事実から自分の国の美質を示すのは史観である。無数の事実を見るための正しい視線の方向と距離が必要なのである。 通史には史観が要る。虹を見るには特定の視線が必要なように。私の日本史観の特徴といえるものは次の二点ではないかと思う。 第一は、王朝の断絶がない日本では、神話の伝承は歴史研究から切り離せない。 第二は、日本の国体(国の体質、英語ではコンスティテューション)は、断絶したことはないが、大きな変化は五回あり、今は六回目の変化を待っている時代である。 つまり日本の歴史上の無数の事件を、この二つの視点――さらに簡単にいえば皇室のあり方の変化という一つの視点――から目をそらすことなく解釈しようとしたものである。 以上、本書「旧版まえがき」より。 そして、本書の末尾には、次のメッセージが記されている。 「われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか」という問いが発せられるとき、その答えのヒントとなるもの、それが自分の国の歴史である。幸いにして日本には世界に誇れる歴史がある。この素晴らしい歴史を鑑として、今一度、誇り高き日本を取り戻さなくてはならない。それはこの時代を生きる日本国民全員に与えられた使命であると思うのである。 ぜひご一読を。 (文責:育鵬社編集部O)ハッシュタグ
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