ばくち打ち
番外編6 闘った奴らの肖像:第1章 第1部 待てよ潤太郎(2)
当時『デミタス』から六本木通りを西麻布方面に向かうと、『ジャーマン・ベーカリー』までは、舗装もされていない草ぼうぼうの野外駐車場となっていた。
ついでだが、この『ジャーマン・ベーカリー』のパンは逸品だった。客層はほとんどがヨーロッパ系の人たちで、早朝から行列ができていた。そこに並ぶ金髪の少女を眺めるためだけに、早起きしたこともある。
六本木・麻布・飯倉の一帯には主要国の在日本大使館がたくさんあることもあって、ヨーロッパ系の住民たちが多かった。
そのころ中学2年生のわたしは、3学年上のおねーちゃんと『ジャーマン・ベーカリー』隣りの野外駐車場で遊んでいた。
見上げた夜空に星が輝いていた。
満天の星だったのは、鮮明に覚えている。
六本木だってミルキー・ウエイ(天の川)が観察できたのだ。
互いの肉体を道具としていろいろ遊んでいるうちに、間違っておねーちゃんに入れちゃった。そしてその間違いを是正する間もなく、すぐに出しちゃった。
それが生身の異性との、わたしの性的な初体験である(笑)。
人にはさまざまな性的体験があるとは思うが、六本木交差点から25メートル圏内の屋外(車の中は屋外と呼ばない)で、「ナマで入れた出した」という快挙を成し遂げたのは、おそらくわたしくらいではなかろうか(笑)。
ついでだが、この遊び仲間だったおねーちゃんは、のちに経済界で著名な人の次男に嫁(とつ)いでいる。
わたしは六本木五差路を麻布十番に下りる芋洗坂(いもあらいざか)にある、敷地だけはやたらとでかいがぼろぼろのあばら家に一人で住んでいた。
なぜ13歳14歳のガキが、六本木の大きなあばら家で一人で住みだしたのか?
事情があり、というかその事情をつくってしまい、親の転勤先から一人で東京に逃げ戻ってきたのである。まあ、不良少年とは事情だらけだ。
六本木や麻布・飯倉といえば、江戸時代には大名の上屋敷(たとえば長門府中藩毛利家の上屋敷。その跡地が『六本木ヒルズ』となった)や中屋敷(たとえば米沢藩上杉家)が散在した。
明治期になると大名屋敷が、三井・三菱・住友の財閥関係、そして久邇宮家などの皇族、三條家をはじめとする公家・華族たちに払い下げられた。
麻布小学校およびその周辺一帯は、紀州徳川家邸の跡地である。
その昔、六本木から芋洗坂や鳥居坂(とりいざか)周辺はお屋敷街で、そこを下ると麻布十番の町人街と棲み分けられていた。
麻布狸穴(あざぶまみあな)などという地名があるように、わたしが住んでいた頃は、ここいらへんにはタヌキが頻繁に出没する閑静な住宅地だった。
近くに米軍基地(現在でも「赤坂プレスセンター」として、その一部は残っている)や防衛庁檜町本庁舎(跡地が『東京ミッドタウン』となった)などがあり、キャデラック・デビルやシボレー・インパラなどの大型外車が、路上駐車していた。当時ああいう車種に乗っていたのは、まず間違いなく「怪しげな人」たちだったのである。
『野獣会』を筆頭として、『六本木族』などと呼ばれる連中が現れたのも、この頃だ。
皆さん、深夜に集合し、明るくなりだすと、散っていった。
つまり、地域外から来た人たちである。
一方わたしは地元でツルんで、不良少年をやっていた。
地元で環境適応が抜群のはずなのに、不良少年たちは『六本木族』に駆逐され、絶滅危惧種指定された。(つづく)
番外編6 闘った奴らの肖像:第1章 第1部 待てよ潤太郎(1)
また「都関良平の物語」に戻ってくるかもしれませんが、前回の号で一応『第6章 振り向けばジャンケット』を「了」とします。
COVID19による壊滅的な影響で、カジノ業界そのものの当面の存続が危ぶまれています。
カジノ業界の現代史を振り返る意味を込め、「番外編 6」ではしばらくの間、これまでわたしがゲーミング・フロアで見知ってきた実在の人々を材料として、その「肖像画」を主に描いてみよう、と考えます。
対象の性格上、「ファクト」プラス「フィクション」イコール「ファクション」の記述方式を採用しました。
摘発された重大な経済事件の被告になった人や、未摘発ながらも明らかに犯罪にかかわった人たちがいました。よって実在の人物を扱っていても「ファクション」の記述形式にしないと、わたしの手に余る厄介な事情だらけの「物語」となってしまうのではなかろうか、と危惧(きぐ)したからです。
しかたない場合で実名の登場もありますが、ほとんどの登場人物・所属等を仮名としてあります。
重要なので、繰り返します。「番外編6」での記述は、ファクト(事実)とフィクション(つくり話)が渾然一体となった「ファクション」です。よろしくご了解ください。
◆第1章 第1部 待てよ潤太郎
わたしは中学生と高校生の頃を、六本木で育っている。
現在では六本木といえば、六本木ヒルズや東京ミッドタウンで知られるように、昼間はメディア・広告やIT関係の華やかなビジネス、および富裕おばさん層のショッピングや「文化活動」で賑わい、夜の帳(とばり)が降りれば大手町や丸の内のビジネス界隈からも人が流れ込む、ネオン綺羅びく繁華街、と思う人たちが多いかもしれない。
しかしわたしが育った頃のこの街は、ちょっと驚くくらい静かな異世界だった。
1960年代前半であるから、まだ首都高速も(中学生のころには)地下鉄も通っていない。
六本木が、「陸の孤島」と呼ばれた時代だった。
車がないと、このエリアを自在に動けなかった。そして当時、自家用車などをもっているのは、ほんの一握りの裕福な人たちだけだった。それで、「陸の孤島」なわけである。
新橋駅と渋谷駅を結ぶ都営の路面電車(「都電」)が、六本木通りをのどかに走っていた。
都電の愛称は、「ちんちん電車」だ。
前を行くオート三輪とかリアカーとかヒトだとか、あるいはイヌネコたちに警報を発するため、ベルを「ちんちん」と鳴らしながら、走っていたからそう呼ばれた。男性器との関係はない。
現在では渋谷駅ハチ公前と同じくらい有名な待ち合わせ場所となった『アマンド』も、当時は『デミタス』という名の品のいいコーヒー・ショップだった。
想い返すと、六本木交差点周辺に俳優座劇場とか誠志堂の書店はあったのだが、ゴトウ花店は街角の切り花屋で、丸正は芋洗坂(いもあらいざか)だけに面した間口の狭い八百屋である。
六本木通りの南東側は、日が落ちれば真っ暗闇となる一帯だった。
どれぐらい真っ暗闇となるのか? わたしの異性との性的な初体験が、六本木交差点信号すぐ横の屋外(笑)だったことで、察しがつくだろう。(つづく)