高山善廣「UWFは“なんにもない子”を強くしてくれる団体だと思ってた」
―[フミ斎藤のプロレス講座]―
「新生UWFの絶頂期でした」
高山善廣(たかやま・よしひろ)はあの夏の日の江ノ島海岸での宮戸優光との再会シーンをこうふり返る。
新生UWFとは、日本とアメリカのプロレス界、格闘技界にいまなお強い影響を残す“伝説のプロレス団体”である。
活動期間は1988年(昭和63年)5月から1990年(平成2年)12月までのわずか2年7カ月間。打・投・極――殴る、蹴るの打撃技、スープレックス系の投げ技、カール・ゴッチ式の関節技――を基本コンセプトとした格闘技系プロレスが大ブームを巻き起こし、主催した全31興行のすべてをソールドアウトにしたが、1991年(平成3年)1月に突然、解散宣言した。
前田日明(まえだ・あきら)がいた。高田延彦(たかだ・のぶひこ)がいて、山崎一夫(やまざき・かずお)がいた。ベテランの藤原喜明(ふじわら・よしあき)がいた。船木誠勝(ふなき・まさかつ)と鈴木みのるは新日本プロレスからの移籍組で、中野龍雄(なかの・たつお=現在は巽耀・たつあき)と安生洋二(あんじょう・ようじ)と宮戸成夫(みやと・しげお=現在は優光・ゆうこう)の3選手は“生え抜き若手トリオ”というくくりだった。
「真剣に、食い入るようにプロレスを観るようになったのは中学時代。14歳くらいですかね、覚醒したのは。プロレスラーになりたい、あんなふうになりたいと思うようになった。家でヒンズー・スクワットをやったり、布団を丸めてジャーマン・スープレックス・ホールドの練習をしていました」
「全日本プロレスは“最初から強い人たち”が入ってくる団体。UWFは“なんにもない子”を強くしてくれる団体だと思ってた。UWFを好きになったのはメディアの影響なんですけどね」
“最初から強い人たち”とはレスリングの元オリンピック代表選手から全日本プロレスに就職した鶴田、大相撲・元幕内から転向の天龍らのことで、“なんにもない子”とは高山のようにアマチュア・スポーツでこれといった実績のないプロレス志望の若者。UWFの前田、高田、藤原らはいわゆる“たたき上げのプロレスラー”だった。
江ノ島海岸での運命の再会のあと、高山は宮戸、安生らにお酒を飲みに連れていってもらうようになり、それからチケットをもらって2回ほどUWFの試合を観にいった。しかし、それがだれとだれの試合だったのか、どんな試合だったのか、残念ながらまったく記憶にないという。
「せっかく試合を観にいったのになんにもおぼえてないんですよ。いっしょに出かけた友だちからは『高山、なんかさびしそうにしてたぞ』といわれて……」
「ずっと、ずっとくすぶっていたんですね。肩が痛くてまったく動かなかったし、(新日本プロレスと業務提携時代のUWFに入門して)いちど逃げてるし、やっぱりできないんだ、オレはプロレスラーにはなれないんだと自分で自分にいい聞かせて、どこかで線を引いていたんですね」
高山の気持ちがくすぶりつづけているあいだにUWFはUWFインターナショナル(以下、Uインター)、プロフェッショナル・レスリング藤原組、リングスの3派に分裂。Uインターの設立にかかわった宮戸からはそれとなく勧誘はあった。
「ライフガードの仕事はおもしろかったけれど、それだけではメシは食っていけない。公務員にもなれなかった。フツーの会社に就職してスーツとネクタイの営業マンになったけれど、これをずっとやるのはイヤだなと思ってた」
「やっぱり、一発勝負して、(プロレスを)やったほうがいいんじゃないかと。(練習中に)ケガして動けなくなったっていい。ケガしたらケガしたで、そのほうがあきらめがつくんじゃないかと考えたんです」
Uインターの入門テストを受けたのは1991年(平成3年)10月。高山はすでに25歳になっていた。道場のすぐそばの急な上り坂での反復ダッシュ走、両ヒザがガクガクになった時間無制限のスクワットよりも、心のコンディションのほうが「重かった」と高山は回想する。
デビュー戦は翌1992年(平成4年)6月28日。福岡・博多スターレーンで半年ほど先輩の金原弘光(かねはら・みつひろ)と対戦した。しかし、Uインターは発足4年めの1995年(平成7年)に経営状態が悪化し、団体存続のために新日本プロレス、WARといった他団体との対抗戦路線に活路を求めた。
高山のUインター在籍中の“出世試合”は、全日本プロレスの川田利明(かわだ・としあき)とのシングルマッチだった(1996年=平成8年9月11日、東京・神宮球場)。
Uインターは1996年12月に活動を停止し、翌1997年(平成9年)5月にそのスピンオフとして新団体キングダムが発足した。当時キャリア5年だった高山もキングダム所属となったが、同年、「ジャイアント馬場さんからお声がかかって」全日本プロレスにゲスト出場するようになった。
「新日本は(スタイル的には)Uに近く、Uしか知らないぼくがわりとスムーズに入っていけたけど、馬場さんの全日本は新日本ともまったくちがう“別世界”だった」
5カウント以内の反則攻撃、場外乱闘、ロープワークといった従来のプロレスの“ムダ肉”――あるいは矛盾――をきれいにそぎ落としたものがUWFスタイルだとしたら、全日本プロレスのプロレスはそういったありとあらゆるエッセンス――あるいは矛盾――を含有する“王道プロレス”だった。
「最初は1試合(の特別出場)。しばらくしてから1シリーズに3試合だけ呼んでもらって、ちょっとずつ慣らしていって、それからシリーズ全戦出場。いま思えば、馬場さんがぼくのために(うまく調整して)そうしてくれたんですね」
「ぼくはゲーリー(・オブライト)といっしょに外国人選手側のロッカールーム。廊下で三沢(光晴)さんとすれちがって、『よろしくお願いします』とあいさつをしたら、ニコニコしてうなずいてくれて。小橋(建太=当時は健太)さんにもあいさつをしたら、『小橋です、よろしく』って、(テレビで観た)そのまんまでした」(つづく)
文/斎藤文彦 イラスト/おはつ
※「フミ斎藤のプロレス講座」第33回
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