混乱と迷走の“イン・ユア・ハウス5”――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第201回(1995年)
ひじょうにまぎらわしい名称のふたつのテレビ番組の同時進行が一般視聴者レベルでのプロレスへの関心度を高めたことはどうやら事実だった。
WWEとWCWのスタンスのちがいがすでに明らかだった。WWEにとって“ロウ”は起承転結のなかの起承転までのドラマ展開で、“結”にあたるクライマックスの部分はPPV(契約式有料放映)にレイアウトされていた。だから、通常のテレビ番組の視聴率は単なる数値でしかなかった。
ところが、全米生中継をセールスポイントとするWCWの“ナイトロ”はすべてのドラマが番組内ではじまり番組内で終わるというデザインになっていて、毎週月曜夜に何パーセントの視聴率をはじき出すかの一点だけが番組の存在理由になっていた。WWEにとってWCWのこのスタンスはやっかいだった。
WWEは9月から12月までの4カ月間に9.24“イン・ユア・ハウス3”ミシガン州サギノー、10.22“イン・ユア・ハウス4”カナダ・マニトバ州ウィニペグ、11.19“サバイバー・シリーズ”メアリーランド州ランドーバー、12.17“イン・ユア・ハウス5”ペンシルベニア州ハーシーのPPV4大会をプロデュースした。
1995年の最後のPPVとなった12.17“イン・ユア・ハウス5”ハーシー大会は、“ヒットマン”ブレット・ハート対ブリティッシュ・ブルドッグ(デイビーボーイ・スミス)のWWE世界ヘビー級選手権をメインイベントに全6試合がラインナップされた。
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