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時代はオルタナティブを求めていた――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第213回(1996年編)

 “ヒットマン”ブレット・ハートは、1984年7月のWWEとの最初の契約以来、12年間でたった4回しか試合を休んだことがないアイアンマンだった。1980年代のWWEは年間300公演という殺人的スケジュールでライブイベントを展開していたから、じっさいにリングに上がって試合をしている時間よりも、飛行機に乗って移動している時間、レンタカーでフリーウェイを走っている時間のほうがはるかに長かった。  ブレットはいつでも黙もくと闘ってきた。ヒールもやったし、ベビーフェースもやった。ホーガンがWWEにいた10年間はリングの内側と外側からホーガンの行動をいつもすぐそばで観察していた。ホーガンがいなくなったとたん、ブレットは“WWEの顔”になった。  いつでもどこでもクオリティーの高い試合を提供しつづけること。スケジュールには絶対に穴を開けないこと。ブレット自身が“ザ・ベスト・ゼア・イズ、ザ・ベスト・ベア・ワズ、ザ・ベスト・ゼア・エバー・ウィル・ビーThe best there is,The best there was,The best there ever will be(現在、過去、そして未来において最高のレスラー)”というオリジナルのキャッチフレーズに強いこだわりをみせるようになったのはホーガンとサベージがWWEのリングから去ったあとからだった。  ショーン・マイケルズがWWE入りしたのは1986年。当初はマーティ・ジャネッティとのタッグチーム、ザ・ロッカーズの片割れとして活躍したが、1991年にシングルプレーヤーに転向した。“HBK(ハートブレイク・キッド)”というニックネームは軟弱系ヒールとしてのキャラクター設定だったが、いつのまにかこのニックネームがショーンのキャラクター=人格になっていた。  “HBK”はホーガン的プロレス観に感化されることもなく、フレアー的クラフト(仕事、技術)にも影響を受けることなく、WWEのリングでみずからのオリジナルのプロレスラー像を追及してきた。とにかく観客の視線を自分のほうに向けさせることにかけては天才的なセンスを持ったレスラーで、ビンス・マクマホンはかなり早い段階でショーンのこの才能を認識していた。
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