“レッスルマニア13”の向こう側――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第254回(1997年編)
“レッスルマニア13”は――ライブ興行は1万8000人超の大観衆を動員したが――1985年3月の第1回大会からはじまった同イベントの歴史のなかでもっとも注目度の低い“祭典”だった。
WWEとWCWの“月曜TVウォー”は、1996年6月から1998年4月まで83週間連続でWCWの“マンデー・ナイトロ”がWWEの“マンデーナイト・ロウ”の視聴率をリード。1997年3月はWCWの独走モードのどまんなかに位置していた。
いまとなっては信じられないようなデータではあるが、この時代の“ロウ”はなにをやっても“ナイトロ”の視聴率を追い抜くことができなかった。ハルク・ホーガンがヒールを演じたnWoは社会現象とまでいわれていた。
ブレット、ショーン、そしてビンス・マクマホンの苦悩はこのどうにもならない現実にあった。月曜夜の連続ドラマ“マンデーナイト・ロウ”は“ロウ・イズ・ウォー”と改称し、番組のコンテンツはややオトナ向けの路線にシフトチェンジした。
生中継だった番組はこの時期から“6秒ディレー方式”が導入され、じっさいの生中継スタイルよりも6秒間だけ遅れて番組をオンエアすることで出演者がマイク・アピールのさいに放送コードにふれる単語を使用した場合――ストーンコールドがその常習犯だった――に“ピー音”が挿入されるようになった。
それまで典型的なベビーフェースだったブレットとショーンはほぼ同時にヒール的なキャラクターを模索しはじめたが、ビンスはこのふたりがひとつのリングに共存することはむずかしいと考えた。
ブレットとショーンの“暗闘”はプロレス史に残る怪事件としていまも語り継がれる“モントリオール事件”(1997年11月9日)へとつながっていく。
ブレットはセッド対アンダーテイカーのタイトルマッチに合計3回、乱入し、場外からセッドに攻撃を加えたことで結果的にアンダーテイカーをアシストした。十八番ツームストーン・パイルドライバーでセッドからフォール勝ちをスコアしWWE世界王座奪取に成功したアンダーテイカーは試合終了後、ブレットと激しいニラミ合いを演じた。
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