更新日:2017年11月30日 14:38
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ニックネームは“未完の大器”と“天才児”――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第259回(1997年編)

 その後、素顔のデイビーボーイはキッドとのコンビで新日本プロレスのレギュラー外国人ワクで活躍したが、1984年11月、全日本プロレスへ電撃移籍。翌1985年からはWWEの全米ツアーと全日本プロレスの年間日程も同時に消化するという超過密スケジュールをこなした。  キッド&デイビーボーイのWWEでの正式なタッグチーム名はブリティッシュ・ブルドッグスで、のちにデイビーボーイがリングネームとして名乗ったブリティッシュ・ブルドッグはこの単数形だ。  いっぽう、1965年生まれのオーエンは、“カルガリーの父”スチュー・ハートさんが50歳のときに誕生した一家のベイビー。少年時代から家業のプロレス興行を手伝い、急にケガ人が出たりカードに穴が開いたりすると、レフェリーをやったり、選手としてリングに上がったりしていた。  正式なデビューは大学中退後の1986年5月で、ルーキー時代のライバルはマスクマンのベトコン・エキスプレスとしてカルガリーで武者修行中だった馳浩、まだ素顔だった時代の獣神サンダー・ライガー、クリス・ベンワー、B・ピルマンらだった。  1987年から新日本プロレスのレギュラーとなったオーエンは、ライバルの馳を下してIWGPジュニアヘビー級王座を獲得(1988年5月27日=仙台・宮城県スポーツセンター)。同年、マスクマンのブルー・ブレーザーとしてWWEのリングに登場したが、その後、WCWを経由してメキシコ、ヨーロッパをツアー。WWEとようやく専属契約を交わしたのは1991年だった。  日本のプロレス・マスコミが若手時代のブルドッグとオーエンにつけたニックネームはそれぞれ“未完の大器”と“カルガリーの天才児”。初代タイガーマスクとの幾多の闘いで一世を風びしたD・キッドを比較するとブルドッグはまだ“未完”で、初代タイガーマスクやキッドよりもひと世代若いオーエンには“天才児”という表現が用いられた。
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相棒キッドが引退後…
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